生命を運ぶ鳥。

 生きていると予想を越える出来事と出会うことがある。それが面白くて、つまらないことの方が多い日々が続いても角を曲がったら非日常との遭遇があるかもしれない。表面上は平穏になった世の中には然して期待できることはなくなってしまったが、俺は景虎と付き合い始めても生命のやり取りを心のどこかで期待していたのだ。
「なあ、比留間。お前生物兵器になる前には女だった、ってことないよな?」
 瑞清に今日の成果の報告へ行った帰りに声を掛けてきたのは白衣を着た医療関連を専門にしている軍医ペットだった。突拍子のない言葉に俺は聊か面を食らって言葉に詰まった後、込み上げてきた笑いを抑えるのに苦労した。
「ははっ、なに云ってんだよ。何なら今晩試してやってもいいぜ?」
「いや、いい。間に合ってる」
 半分冗談、半分本気の誘いをばっさりと切り捨てられたものの心は大して痛まない。それなら景虎をまた存分に可愛がってやればいいのだから。
 「そうだよなあ、きっと何かが映り込んだんだよな……」と零して軍医ペットは去っていき、まあちょっとは面白い話だったなと俺は景虎の部屋に向かって歩き出した。

 一週間後。そんな会話をしたことすら忘れていた俺は軍医ペットに呼び出しを受けて医務室を訪れていた。椅子に腰掛けて手元の黒っぽい写真のようなものを眺めて唸っている軍医ペットに軽く手を挙げて来室したことを告げる。
「んな深刻な顔してどうしたんだよ、癌でも見つかったか?」
 自分の喫煙やら身体を害する行いを振り返ってあくまで冗談っぽく問い掛けると軍医ペットは困った顔をして俺を見た。
「え? マジで? え、どんな感じよ」
 そこまで深刻な顔をするほど進行しているなら何らかの自覚症状があってもいいと思い聞くと、何も云わずにずっとそいつが視線を落としていた紙を渡された。
「ん、なにこれ……どっかで見たような」
 モノクロの写真は不鮮明で身体のどこかを写したものであることはわかった。だが喉元まで出かかっているのにその答えが出てこない。
「それ、お前の腹だよ」
「へっ? じゃあこれ腫瘍かなにか?」
「……胎児」
「胎児って……ガキ?」
 どうしてまたとその写真を見ていると確かに昔教科書か何かで見たことがあったから既視感があったのだと納得はした。
「前、お前に女かって聞いたの覚えてるか?」
「ああ、うん。あっさりと振られたけどな」
 あの後景虎の部屋に行ってたっぷりと泣かせてやったことはまだ記憶に新しい。すぐに挿れたがる景虎には待てを繰り返して手や口を使ってある程度搾り取ってからじゃないととてもじゃないが付き合いきれない。俺もまだまだ若いつもりだったが無限に性欲があるのではないかと思うほどあの若い虎は求めてくる。嫌いではないのだが求められるままに応えていると翌日使い物にならなくなるのだから、やっぱり老いを感じずにはいられないと自然と苦笑が浮かぶ。
「その時から受精卵みたいなのは見えてて。でもお前も女じゃないって否定したからその時は何とも思わなかったんだけど、やっぱり気になって調べたらお前やっぱり子宮みたいなのがあるんだよ」
「はっ?」
 景虎のことはひとまず置いておくとして、冗談にしては下手すぎる。そんなとんちきなことが早々あるとは思えない。両性具有の生命体がいるのは知っているが、それが自分だと云われるのはまた訳が違う。
「はあ……? いや、俺本当に正真正銘男なんだけど、今度こそ試してみろよ」
「お前一応身重の身なんだから落ち着けよ」
「いやだってさ……」
 自分のぺたんこな腹部を撫でてみる。何も感じない。生物兵器にならずヒトのままだったらあったかもしれない人並みの幸せというものが、突然腹の中にいると云われても信じることは難しい。
「……てか、俺産めんの?」
「いや、ある程度育ったら帝王切開して保育器に移さないと難しいだろうな」
「はあ……。そうなの、それはまた難儀なことで」
 仰々しい言葉の連続に頭が事実として受け入れることを拒絶して最早他人事のように感じる。腹搔っ捌くのか、まあ大変そうだ。
「比留間はどうしたい?」
「何を?」
「子供だよ。今ならまだ」
「はっ、殺すの?」
 その言葉を自分で口にして初めて実感のようなものが湧いてきたことを感じた。
「上には云っていないから隠して産むことはできるかもしれない。でもその後は……」
「……ははっ、趣味の悪いアチラの国ではいいオモチャになるかもなあ……」
 生物兵器と、ヒト。もしくは生物兵器同士の遺伝子を持った存在。それは研究者たちの飽くなき探究心を刺激する甘美なご馳走だろう。
「……どうしたい? どちらを選んでも俺は協力するよ」
「……ありがと」
 何とか笑顔のようなものを浮かべられたと思う。軍医ペットは複雑な顔をしていたから失敗したかもしれない。
 医務室を出てふらふらと宛てもなく歩いている、つもりだった。気がつけば景虎の部屋の前に立っていて、ノックもなくがちゃっと扉を開ける。筋トレをしていたらしい景虎が数センチ浮いた。やっぱり面白い奴だ。
「みみみみっみ、ミケさん!? 男の部屋はノックしてから入らないとダメっすよ!?」
 別にやましいことをしていた訳でもないくせに景虎はその場に正座して、固まっている。
 特に返事をせずに扉を閉めて勝手にベッドに寝転ぶと正座をやめてベッドの端に顎を乗せてこちらを窺っていた。
「俺さ、妊娠してるんだって」
「へっ!? あ、また俺のこと揶揄おうとしてるんっすね! もう騙されないっすよ!」
 どや顔をしている景虎に何のことだと記憶を探ってみたら、前に風邪をひいた時に翡翠にそんなことを云われて真に受けて育児書やらレモンを買ってきたこと。それから数日前のエイプリルフールにそんな嘘を吐いてたなと記憶が蘇ってくる。
 単純で、曇りのない景虎を見ていると自然と口端が上がった。
「できんなら普通に産んで育てたいんだよね」
「またま、た……え……今度こそマジっすか……?」
「うん。これ証拠」
 三度目の正直だ。医務室で渡された腹部のエコー写真を景虎に差し出すと食い入るように見つめている。
「み、ミケさん……!」
「ちょっ、お前なんで泣いて……」
 景虎は眦に大きな雫を浮かべてぐっと俺の手の上に分厚い手のひらを被せて強く握り締める。それは僅かに汗で湿っていて景虎の感情が伝わってくるようだった。
「わ、わかんないっす……でも、俺嬉しくて……」
「……お前のガキじゃねえかもよ?」
 ああ、また思ってもいないことをこの口は吐く。どう考えても、相手はコイツしかいないとわかっているのに。調べるまでもない。この身体に宿ったのは間違いなく景虎の血を受け継いでいる。
「ミケさんの子供なら俺の子供っす!」
「はあ……お前って本当に……」
 どうしようもない。けれどそんなところがとても愛おしい。曇りない眼に映っている俺の口角は緩やかに弧を描いていた。
「ミケさん、前に云ったこと覚えてます?」
「お前めちゃくちゃしゃべるからどのことかわかんねえよ」
「俺一生懸命がんばりますから! だから安心してくださいね!」
 改めて手を握り直して力強く上下に揺らす景虎に目尻が下がるのがわかった。
「……っぷ。めちゃくちゃ不安」
「えぇー!? ミケさんの仕事とか全部俺がやりますし! 身体を第一に……あ、レモンがいいんっすよね!」
「いや、まだその段階じゃねえし」
 なぜだろう。先ほどまでどうしようもない不安に駆られていたのに、コイツがいれば何とかなるような気がしている。
「ねえねえ、どっちっすか? 俺男の子がいいっす!」
「……お前こんな豆粒みたいな状態で性別なんてわかると思うか?」
 そう云われて再び写真を注視する景虎。
「えーと、…………絶対男の子っす!」
 前言撤回。やっぱりめちゃくちゃ不安だ。