気がつけば、私は手入れが全くされてないトイレで、立ち尽くしていた。
少し顔を上げればそこには血を流して動かなくなった、小さな女の子。
と云っても、血液は既に酸化して虫が涌いている。
今さっき命が潰えたわけではないらしい。
『次こうなるのは、私?』
常に緊迫した環境に精神はすり減り、最悪の結末しか脳に描けない。
外から聞こえた私を呼ぶ声は狭く籠った空気の中に響き、私は顔を上げた。
そう云えば恋人を待たせていた。
思い出した私は溢れそうな涙を拭って、惨劇の爪痕が残るトイレを後にした。
お待たせ、と出来るだけ笑って見せるけれど、恋人は私の顔、特に目元をじっと見て、小さく息を吐いた。
「もう少しで、助けが来るから。そしたら」
安心させるように柔らかく髪を撫でて、私の手を引いて歩き出す。周りを見渡すと壁に
貼られた紙に書きなぐられた言葉たちは見慣れないものばかりで、ここは見知らない土地だと気づく。
今現在、武力による犠牲者は日に日に増えていて、土に返すことが出来ない亡骸たちは
腐乱していく。
一体ここに来て、何日経ったのだろう。
何も知らず、無邪気に走り回る子供たち。反対に疲れきった大人たち。
いるのは皆、女性だけでこの広場の空気も淀んでいた。
「――の方、あと一時間ほどでこちらに着くと連絡が」
きっちりと制服のようなものを着込んだこの人はここに関係のある人間なのだろうか。
それは一先ず置いておこう。
何はともあれ遂に迎えが来た。
元の居場所に帰れるのだから。
例の関係者らしき人物に誘導され、屋上まで来た。
初めて見た外の景色は、周りは砂漠、少し離れた先には密林。これでは陸路での救出は困難を窮める。
だから空から来るのかと、僅かながら思考に余裕が生まれた。
見上げた空は高く、青く澄んでいて、この中で起きた悲劇など、知る由もなぃ。
恋人が言葉もなく私の手を握る。
恋人も安心したのだろう。
表面上は私を気遣ってか前向きに考えてる様子だったが、きっとあの笑顔の下では不安や恐怖と戦っていたのだろう。
でも、もう大丈夫。
帰ったら何をしよう。
今まで当たり前に出来ていたことも今は貴重な、穏やかな時間だったと知って。
とりあえずふかふかのベッドで思う存分眠りたいね、と帰ってからの事を話す私たちを微笑ましそうに見ていた関係者の表情ががらっと変わった。
お互いから視線を外して関係者と同じ方向を見るが、鬱蒼とした木々が広がるばかり。
「――っ!?」
また反対の方へ向き直り、息を飲む。こちらの方は目に見えた。
きっと、あれが。
「逃げて!」
私たちの背中を押して、来た道を下り始める。
すると、上の階層から聞いたことのない鈍い音が響いた。
あのままあそこにいたら跡形もなく消え去っていたに違いない。
そう思うとどうしようもない恐怖に震えが襲う。
それでも足を止めずに走り続けて先ほどの広場に戻ってくると、そこは違う場所へと姿を変えていた。
力だけが支配する、混沌とした空間へ。
何も知らずに走り回っていた子供たちはもう、何も見ていない。
開いた瞳孔にただ、赤が映っているだけ。
喉まで悲鳴が上り詰めていたが、恋人に手を引っ張られて何とか正気を取り戻した。
ここで惨劇が起きていると云う事は。
下からも、奴らは来ている。
どこに行っても、もう逃げられない。
変わらない現実に意識が遠退きそうになる。見渡す限りの赤、赤、赤。
噎せ返りそうな鉄のにおい。
これは、本当に現実なのだろうか。
ばたばたと足音が響き渡る。
「ここにもいたぞ!」
ああ、男たちに見つかってしまった。
「しっかりして!」
こんな絶望的な状態でも恋人は立ち向かうと云うのか。
でも、一緒なら。
自分が立っているのか浮いているのか、ひどい浮遊感に逆らいながら一歩、
また一歩恋人の元へ歩き出した。
ちくっ。
視界が、ぐるぐる回って、倒れたらしい。
らしぃ、と云うのは地面に倒れた感覚がないからだ。
恋人が呼んでいる声がする。
起き上がりたいのに体に力が入らない。
むしろ手足がどこかへ行ってしまったかのように何も感じない。
恋人の顔が遠い、やっぱり倒れてるんだ。
何だか冷静な私。
てか何やってるの、あなただけでも逃げてよ。
今なら私に奴らの目が向いてるんだから。
あの人を探しに行ってよ。
ああ、声も出ないし、首を振る事も出来ない。
何も、伝えられない。
また遠くで破裂音が轟いた。
今度は何が来たんだろう。
「――の方! 応答して下さい! ――の方!」
ああ、助けが来たんだ。
あっちも武器があるみたいだし、大丈夫だよ。
ねえ、声にならないけれどわかるでしょう?
私が云いたい事。
「――! 急いで! 早く脱出を!」
「……」
ねえ、何で首を振るの。
嫌だよ、逃げてよ。
またどこかで爆発が起きた。
次の瞬間、広場は火に包まれた。
奴らは逃げ出した。
多分、この火は奴らが放ったものではないのだろう。
視界が全て、赤く染まる。
熱さも何もわからないけど、恋人が汗をかいて掻いているからきっと熱いのだろう。
恋人が私を抱き上げてくれる。体温さえもわからないなんて哀しい。
今迎えるであろう死よりも。
「2人きりになったね」
穏やかに微笑む恋人。
「好きだよ、ずっと」
ぼろぼろ涙が溢れてくる。
ねえ、一緒に生きることは出来なかったけど。
今、とても幸せだよ。
と云う、夢を見たんだ。