生命の樹。

 私は、独りきり。
 いつから。
 気付いた時には。
 絶対安全を約束された10ヶ月余りの仮住まいを出た時には、既に。
 羊水に塗れた私を、天の恵みの雨は降り注いでますます私を孤独に溺れさせた。(泳ぐのは胎内だけで沢山なのに)

 私の周りに生きる人々は私を異端視していた。
学び舎に居場所がある事だけでも奇跡に近い事。その証拠に都合良く奇跡は何度も起こらず、居場所があるだけで私は学ぶ事を許されてはいない。
 居場所があるだけ。それでも存在が許されたこの場所にいたくて、私は毎日ここに来ている。
顔も覚えていない誰かがくれた、この本を眺めている。学べない私は文字が読めない。だから宝の持ち腐れ、と云うもの。

 窓の外が赤く染まり、私の影を除いて染まる。そろそろ帰らなくてはならない。これから帰る場所には私の居場所はない。
 与えられた机を一撫でして、唯一私のもの、分厚い本を抱えて立ち上がった時。異変は起きた。
 音も無く、二つの人影は学び舎の一室に現れた。
手には黒い塊。それが何なのか、何故それ等が私に向けられているのか。理解出来ずに立ち尽くしていると。
ーーぱん。
 軽い音に、熱くなる腕と足。視線を落とせばそこからは赤い液体が止め処なく流れてゆく。
それから胸に抱えた本に穴が空いていた。大切なものなのに、壊された事が私には哀しかった。
 聞き覚えのある言葉の配列が、木霊する。
それが何なのか、考えようにも2人の人間の手から次々と鉛の雨が叩きつけられて、その音が余りにも耳障りで考えられない。
 大切な、本が形を失くして。
 私の身体が真っ赤な液体に染め上げられた時。
 「お兄ちゃん」と私の声帯が辛うじて音にした。

 少女の身体が、沼に沈んでゆく様な緩慢さで床の中へ。
その姿を視界に入れた黒い服を纏った男達は興味も無さそうに拳銃を懐にしまった。
 先程まで少女の身体に降り注いだ鉛の音に似た足音が狭い一室に響く。男達がその音の発生源を見る間もなく、男達と対にある様な白い服の男が室内に駆け込み容赦のない一撃を与える。
眉間に一発ずつ。その攻撃によって2人は絶命させられたが、まだ足りないと人型を保てない程の銃弾を浴びせた。
 白い服が返り血で真紅に染め上げられた頃。男の表情は全く無く、それにも関わらず瞳から溢れた透明な雫が頬を伝い、血と混ざって濁った。

 ゆっくりと、目を開いた。
辺りは暗く、何も見えない。
それでもここは温かくて、身体も心も真綿に包まれている様な心地良さ。
 そして、思い出す。ここは10ヶ月近く過ごした絶対安全の揺り籠。
揺蕩う意識がまた微睡みに落ちかけた時、何もなかった揺り籠に光が差した。
指先に何かが触れて、重い眼球を動かすとそこにあったのは大樹、と呼ぶしか出来ない。全体像を把握する事が不可能な程の樹木。
光源は紛れもないこの樹木。眩い程の光を放っているにも関わらず、目を開いていられる不思議な光。
 声なき声に呼ばれる。忘れていた、自分の名前。根元からも身体の沈下は止まらず張り巡らされた根の部分に包まれる。
 温かい。無条件に安心する。泣きたくなる程の安息が、ここにはある。
根は意思を持って、身体を伝い、動いているのかも判らない左胸の上を彷徨い、皮膚を越えて、心臓を撫でる。
 熱い。息苦しさを感じて、自分が呼吸している事に気付いた。
 そして、流れ込んで来る、意識。
 貴方の魂には何度も傷を付けてしまった。
 もう間違えないように。
 悲しい魂に幸あれ。

 視界が赤く染まる。
焦点を合わせるとこの赤は夕陽による物だと判った。
 胸に抱えた大事な本を抱き締めた時、「どうした?」と声がして私は声の主を見上げた。
 「何でもない」と答えた刹那、異変は起きた。
 音も無く、二つの人影は学び舎の一室に現れた。
手には黒い塊。それが何なのか、何故それ等が私に向けられているのか。理解出来ずに立ち尽くしていると。
 「失せろ」と。私に向けた優しい気持ちなど感じない冷たい声色と同時に。
ーーぱん、ぱん。
 軽い音に、倒れる2人の人間。すぐに視界は白に遮られて、赤く染まった部屋を後にした。

と云う、夢を見たんだ。