mental case(strawberry)

早くからどこか、学び舎のようなところに隔離されていた私たちは、外の世界で蔓延しているウイルスの正体を知らない。
ただ、早い段階から「あなたたちはここにいてはいけない」と何も知らされずに連れて来られた。私たちの共通点はクリエイター。大半は漫画家で他に物書きやデザイナーらしき人々がちらほらと。皆、外での出来事には我関せずと自分たちの仕事を平常通り熟して日々を消化しているだけであった。
そんなある日、少数派である物書きの私は外を飛び回る飛行物体の喧しさに集中力を削がれてノートパソコンの前でぼんやりと真っ白な画面を眺めていた。こんな混沌とした環境の中、果たして娯楽など求める人間がいるのだろうかと思案しながら。ここは静かだ。それぞれが自分の仕事だけに打ち込んでいる。ただ、多数派の漫画家たちは馴れ合いのような、よく判らないコミュニティを築いているようではあったが。
そんな漫画家たちの集まりが騒がしい。視線をそちらに向けてみればなんて事だろう。頭を抱えて奇声を上げている女がいる。まあ、今まで発狂しない方がおかしい環境にいたと云えばそうかも知れないし、そうではなかったかも知れない。
第一の発狂者を私は注意深く観察していた。他にする事がなかったと云うのが大半の理由であり、残りは暇潰し。ここは本当に静かで、退屈なのだ。恵まれた環境。絶対的な安全を約束された空間ほど人間の退化を促す環境ではないだろうか。
女はとにかく頭を掻きむしっている。丸で脳内に寄生虫でもいて、それが暴れ回って神経回路をずたずたに破壊されて……いやいや、そんな事があれば絶命しているであろうが、そう喩えたくなるほどの奇行だ。頭皮から引き千切られた髪がはらはらと女の周囲に落ちて行く。
辛うじて、女の言葉が聞き取れた。嫌だ嫌だと何らかの言葉の語尾のように呟いている。何が、とは特に疑問を感じない。確かに私も『嫌』だから。
どうしたの、と明らかに女の事を気違いの類いと判断して安全圏から女の元お友達が声をかける。こちらからすればこんな環境の中気を違えない方がどうかと思わないでもないが、今はそれどころではない。今し方まで嫌悪していた女が好ましく思えて来た。狂っている環境の中、素直に、本能的に狂っている。
素敵、恍惚を感じながら女に近寄ろうとした途端、女は防弾硝子だと聞かされていた(だから安全なのだと誇らし気だった男の顔が脳裡を過る)はずの窓に突進して、甲高い音を立てて木っ端微塵にして、空に姿を消した。
人と云うものは不思議な生き物である。恐いもの見たさ。見た後で後悔すると知りながらお友達の末路を確かめに、漫画家の集団はこぞって窓に歩み寄って行く。他の理由で私も彼女たちの後ろを着いて行く。この高さから飛び降りて無事であるはずがない(それに女は寄生虫に脳髄を破壊されてすでに死んでいたのだし)。
それでも、それでも何故だろう。きっと素敵な光景がそこにあると思ってしまって。案の定、彼女たちは短い悲鳴を上げて、顔を伏せた。ある女はぽたぽたと涙を落として。またある女は涙に加えて嘔吐して。大体、そんな感じだった。窓際にいたデザイナーの男はあからさまに嫌な顔をしている。人間ひとり、死んでしまったと云うのになんて冷静なのか。あの男は女のひとつ先、脳髄破壊以上の悲劇から狂っているようで狂っていないような。その実狂っていないように見せかけて実は狂っているのかしら。そう考えれば、大して嫌いではないのかも知れないと私の認識は改まった。
不意に、気付いた。彼女たちはさすが共同体と云うのか、いつの間にか皆が同じように、同じものを吐瀉している。それは、赤く。血液かと思えばどろりとした。イチゴジャムのような粘度の高い、赤い物体。
何が起きているのか。断っておくが興味本位なんて下衆な感情ではなく。私は彼女たちの間を縫って、女が飛び去った窓際に足を進める。彼女たちの周囲は甘い匂いに満ちていた。そう云えば朝食は何だったかしら。イチゴジャムがなかったのは確かだ。
そんな事を考えながら、粉々になった硝子を撫でながら久しぶりに外気を吸い込む。懐かしい、生命の息吹を運ぶ微風に髪を撫でた。ゆっくりと、視線を下に向けて行く。私の脳機能もいかれているのか、やけに伝達が遅く、コマ送りの映像を見ているような違和感を覚えながらも確実に、女の姿を探す。
ここは山中だったのか。緑豊かな視界の中に、突如、赤が飛び込んで来る。クリスマスカラー。なんて、実際眼に痛いだけの色の組み合わせで私は好んでいないけれど、この色合いは好きかも知れない。
女はそこにいなかった。そこにあったのは、赤い、彼女たちが撒き散らしているイチゴジャムのような物体だけ。
もし。もしも、あれが女の脳を破壊した寄生虫であり、女を食い尽くしてしまったとして。脈々と、荒ぶる命の存在と、誠実に、それでいてこの世界を支配している木々の色彩はとても美しい。素敵、そう感じたのはあの女の事ではなく寄生虫。その存在だったのだろうか。
彼女たちは、最期まで共同体を貫くらしい(さっきは気違いだと冷たい視線を送っていたと云うのに)ひとりずつ、羽ばたいて行った。そして、帰らなかった。
私は、そもそも共同体ではなかった。そのせいかあの寄生虫(仮)を見ても彼女たちのように嘔吐する事もなければ、女のように脳を破壊される事もなかった。それは喜ばしい事なのか、忌むべき事なのかまったく想像もつかない。
外の世界で流行っているウイルスは、あの寄生虫(仮)なのだろうか。もしそうならば感染者とこの絶対安全を騙った密室で一緒に過ごした私たちも直に女と同じ末路を辿るのだろうか。

不意に、意識が途絶える。眼を開くと持ち主に相手にされず眠ったらしいパソコンの画面に私の顔が映っていた。
辺りを見回すと、漫画家たちのコミュニティが何やら楽しそうに談笑して、窓際のデザイナーは無表情で誰が着るのか判らない衣服のイメージを認めていた。良くある光景。
私がパソコンのエンターキーを叩いて構ってやると、ウィィンと拗ねた声を上げて画面に明かりが灯る。画面は、真っ白ではなかった。内容は……私の日記のようなものだった。
それは私がここに隔離されてから、昨日の事まで。そのはずなのに、同じ日付が何度も出て来る。似たような日常を消化して、一定の日付を迎えるとまた何事も無かったかのように始めに戻る。
ねえ、病んでいるのは世界の方だと云うのは、本当ですか。
本当は、私たちが狂っているのではないのですか。

と云う、夢を見たんだ。