お部屋が1番落ち着く場所ではないなんて、悲劇だと思う。と、引き蘢り気味の私は感じる。
狭くて、呼吸さえままならない空間はいたくないと。似たような性質を持つ彼女は人々で溢れている外へ出て行く。
4畳半くらいの面積に、必要なもの、素敵なものを並べて。それらに囲まれて、それらを愛でる生活を彼女は厭う。
外の世界には悲劇と憂鬱しかないのだから。それならば、私は私が作り上げた小さな世界で微睡んでいたい。
私の世界は私にやさしい。彼女はきっと私の世界の部品ではないのだろう。それなりの年月をともに過ごした。その日々は消化すればするほどに彼女は私が望んでいる、私の世界の住人ではないのだと。残酷なほど姿を変えて行った。気を遣わなくなる。それは良い事なのか悪い事なのか、狭い世界を好んでいる私の了見では判りそうにもない。
彼女の世界に時々登場させられる私はどんな姿で、どんな思考回路を持っているのか。彼女の理想を考えてみても完全には掌握出来ていない事と同じ、きっと彼女も私の事が判っていない。
問題なのは、私は判らないのだと。あっさりと白旗を揚げて降伏姿勢を見せているのに、彼女は判っていると。自らを過信して、理解していると云う素振りを見せながら私に接して来る事だ。
判っていない。それは驕りだと。進言する事がやさしさなのか。もしそうであるなら、私はとんでもなく残酷な人間と云うことになる。
やさしさ、なんて一言で云ってみてもそれぞれの認識が違うように、確かな事なんてひとつもない。きっと、私は私なりに考えて、彼女にとってのやさしさを与えているつもりだ。
『それこそが驕りだ』
結局のところ、私たちは本質的な部分が似通っているのだろう。
4畳半の箱庭で、素敵なものに囲まれて素敵なものを愛でる。これだけは私の中で確かな幸せ。
彼女と明らかに違うのは、求める幸せの形が月と太陽と同じくらいに違う事。
それだけは、確かな事。だから彼女が外に幸せを探しに行く事は悲劇ではない。
私にとっては、今この瞬間が1番幸せなのだ。それは彼女も同じ事。