水の夢 – 起 –

水の夢 – 1 –

 梅雨の中休み。珍しく太陽に恵まれた今日は、憂鬱な人々にひと時の安息を与えていた。
 そんな穏やかな日和にも関わらず、俊樹は仏頂面をしている。足取りも彼の心中を現すかのように乱雑だった。
 俊樹が放つ不穏な空気に、周りの生徒たちは壁際に待避して気配を殺している。
 事の発端は昼休みに入る前の四時間目、三年生で行われた数学の授業。
 数学の担当教師が体調不良で休んでいることは、俊樹のクラスでも自習になったので知っていた。
 しかし、三年生の教室では俊樹が特別な感情を抱いている人が教壇に立って授業を行ったと聞いては、黙っていられない。
 そんな経緯から、衝動のままお弁当の包みを片手に保健室へ来た。
 いつもより若干強めに扉を叩く。だが、中からの返答はない。それは来訪者が俊樹だと知っていての反応なのか。それともまた厄介事に巻き込まれているからなのか判断ができず、彼は扉を開けた。

「あ……椎名くん」

 電話をしていたらしい瑞貴は携帯電話を白衣のポケットにしまうと、驚いた様子で椅子ごと身体をこちらに向ける。

「あまりここに来ると河島先生に怒られてしまいますよ」

 俊樹の担任教師の苦労を思案してか、瑞貴は苦笑いを浮かべて諭そうとした。ところが、彼はまったく聞く耳を持たず指定席にどっかりと座る。

「瑞貴さー、なんで俺のクラスには来なかったの?」
「……先生と呼びなさい」

 五年振りに再会した瑞貴は、いつの間にか医師になっていたらしい。今は本業の傍らで週三回程度、この学園の校医を勤めているとのことだ。
 保健室が週の半分しか機能しないとはどう云うことだと思われそうだが、前任の養護教諭があまりにもひどかったためだろう。今のところ反論は起きていない。

「だってずるいじゃん。俺もセンセーに教わりたい」
「数学でわからないことがあるのでしたら、岡谷先生にお聞きになった方が確実ですよ」

 お弁当の包みを開きながら瑞貴に抗議するも、ばっさりと切り捨てられて俊樹はむっとする。

「やだ。あの先生誘惑するから」
「——……っ!?」

 お弁当を突きながら岡谷との間で起こった出来事を思い返していると、固形の栄養食を食べながら仕事をしていた瑞貴が突然咽せた。

「……なに、なんでそんなにあの先生のことで動揺してるの?」

 表面上、心配そうな視線を向けながら、瑞貴を頷かせる方法がないものかと考える。

「……何でもありません。椎名くんは私が教えなくても成績がいいのでしょう?」
「ううん、全然わかんない」

 確かに瑞貴の云う通り、成績にはまったく問題がない。それは五年前にあなたと約束したからではないかと云いたかったが、また頭を抱えて苦しませたくもなかったので黙っておく。

「……何がわからないのです?」

 ふう、と嘆息して瑞貴は訊ねた。押せばいけると確信した俊樹は「英語が特にわかんない」と嘘ではない言葉を返す。

「英語ですか……構いませんけれど、お約束は忘れていませんよね?」
「はいはい、体調悪い生徒がいる時は大人しく帰りますよー」

 心の中でガッツポーズを決めながら、ここに出入りするにあたり決められた約束を宣誓した。
 お弁当を食べ終えて、仕事に励む瑞貴の背中を見る。先月には考えられなかった光景だ。
 生死もわからなかった瑞貴と、こうして再び話せる日が来ると思っていなかったためか、特に会話をせずとも姿を見ているだけで満足できてしまう。
 俊樹は昼休みが終わるまで、飽きもせずに瑞貴を見続けた。