水の夢 – 起 –

水の夢 – 7 –

 翌日、水那は約束通り学園に来ていた。しかしいつもと違う雰囲気に友也は戸惑っている。
 だが昨日の出来事をどこまで伝えていいものか何とも云えず、俊樹はいつも通り過ごした。
 それから重苦しい雰囲気のまま昼休みになる。その空気から逃れるように、もはや習慣と化している保健室へ向かった。
 とんとんと扉を叩くと、「いますよ」と訪問者が俊樹だとわかっている言葉が返ってきて、微かに笑む。
 中に入ると途端に甘い花の蜜のような、熟れた果実のような香りが鼻腔を突いて、息が詰まった。得体の知れない感情が騒ぎ立てるのを堪えながら室内に眼を向ける。
 いつもの位置に瑞貴の姿がないと思えば、すでに俊樹の指定席の向かいに座っていた。机の上には包みが置いてある。


「センセーそれって……」

 中身は大体想像できているが、それでも聞いてしまった。

「ええ……椎名くんががんばったご褒美です。しかしこんなものでよかったのでしょうか」

 困惑を隠せない様子の瑞貴に、俊樹は勢いよく頷いて喜びを示す。水那のことで頭を悩ませていた時にこれはとても嬉しく、少し気分が晴れた。

「天気いいし屋上で食べよ、センセー」
「え、ええ……」

 そんなに俊樹が喜んでいる様が不思議なのか、半ば押され気味に瑞貴は頷いて椅子から立ち上がる。
 早く食べたくて仕方がない俊樹は、のんびりしている瑞貴の腕を掴んで急かした。

「お弁当は逃げませんよ」

 保健室を出て扉に鍵をかけている瑞貴の横顔は笑っている。その表情を見て俊樹は驚いた。腕を掴んでいても瑞貴がさして気にも留めていない。あんなに身体に触れられることを嫌がっていたと云うのに。

「どうかしましたか?」

 瑞貴の変化に驚いていた俊樹は、はっとして腕を掴んだまま歩き出してみた。やはり当たり前のように引かれるまま瑞貴は彼の後ろを着いてくる。
 些細なことかもしれない。それでも少しずつ気を許し始めてくれているのだと思えて、ただ嬉しかった。
 屋上に出ると梅雨独特の湿気もなく、陽射しが心地好く降り注いでいた。
 しきりに辺りを見回す瑞貴はここに初めて訪れたようで、落ち着いた今は気持ちよさそうに眼を細めて太陽を見上げている。
 たまに友也たちと一緒に食べる、日影になっている場所に瑞貴の腕を引いて連れて来た。壁に寄りかかって座ると、それに倣って瑞貴も白衣が皺にならないように気をつけながら座る。
 瑞貴から受け取った包みと、母から持たされたものと両方を開いて、俊樹は顔を綻ばせた。瑞貴の方には彼が好きな卵焼きが入っていたからだ。

「覚えててくれたんだ」

「ええ……あの強烈なやり取りは忘れられませんから」

 瑞貴の笑い上戸が発覚した出来事を思い出して、俊樹は乾いた笑い声を上げる。瑞貴も思い出しているのか。口許を押さえて必死に笑いを堪えている様子だった。

「センセーも食べなよ、たまには」

 これ以上笑いのツボが刺激されてまた笑い死にかけられては困る。俊樹は箸を差し出して提案した。この判断は誤りではなかったようで、瑞貴は眼を見開いて驚きを示す。
 いつもは断るのに今日は二つあるためだろうか。瑞貴は嬉しそうに笑って「いただきます」と箸を受け取って俊樹のお弁当を食べ始める。
 固形の栄養食を口にしているところしか見たことがないだけに、こうしてきちんとしたものを食べている姿を見られて安心した。
 そういえば再会して、食事をしているところを見るのは初めてかも知れない。
 瑞貴の身体を心配しつつもやわらかな黄色の誘惑にはあらがえなくて、さっそく一切れ口に運んだ。

「……美味い」

 人間とは本当に美味しいものを口にすると、単純な言葉しか出てこないものだと初めて知った。甘すぎないふわふわの食感の卵焼きは俊樹の理想そのもので。もったいなくて箸を進められない彼を、瑞貴はびっくりした様子で見ている。

「そんな……大袈裟ですよ」

 「お口に合うのでしたら食べてください」とそう促されて他のおかずにも箸をつけるがどれを取っても文句なく美味しい。
 こんなに料理が上手いなら毎日お弁当を作って食べればいいのに。栄養や彩りを考えて作られたであろう瑞貴のお弁当にがっつきながら、そんなことを思った。

「ごちそうさまでした」

 そう云った瑞貴の手元のお弁当は半分くらい残っていた。だが普段から見れば食べた方だろう。嬉しくなって瑞貴の頭を撫でるとくすぐったそうに表情を緩ませる。
 やはりあの一瞬の反応がなくなっていた。そのこともあって食は進み、瑞貴が残した分も綺麗に平らげて蓋を閉める。

「ごちそうさま。すごく美味かった」
「お粗末さまです。喜んでいただけたのでしたら何よりです」
「私もごちそうさまでした」と笑う瑞貴が愛くるしく思えて、俊樹はほっと息を吐いた。一ヶ月前より表情も増えて、あの頃の瑞貴が帰ってきたような気がして振り返る。

「昔もみんなで出かけて弁当食べたよね」

 もう戻らない日々を思い返して、思わず口を吐いた言葉。空気を震わせてからしまった、と様子を窺う。瑞貴は少し思案する素振りを見せたあと、視線を合わせて「ええ」とだけ答えた。
 その答えは何となく、表面的に同意しているだけの気がして、俊樹は確信を得るための言葉を続ける。

「海にも行ったね。花火もして、センセーが家に泊まりに来て」
「ーーええ……、懐かしいですね」

 今の一言で、はっきりとした。瑞貴は過去の記憶を失っているのだと。

「本当に?」
「はい」

 瑞貴は笑みを浮かべたまま、頷く。

「今云ったのはさ、約束したけどできなかったことだよ」
「え……?」

 事実を伝えると瑞貴は微笑みを崩して狼狽えた。

「覚えてないのは仕方ないよ。いろいろあって……大変だったのわかってるし」

 俊樹の言葉に、だんだんと表情をなくしていくのが見て取れる。また頭痛に苦しむかと思ったがそれは杞憂に終わった。
 考えることに精一杯になっていると見える瑞貴は、表情にまで意識が向けられていないだけのようだ。
 ペットボトルの蓋を開けて、水を飲むために傾けるとちゃぷん、と中身が揺れて音を立てた。
 その音で再会する前の、最後に見た瑞貴の姿を。赤い水の記憶が、脳裏を過った。