今日はついに待ちに待った瑞貴との同棲の条件を満たす日である。数ヶ月前に瑞貴からの提案で受け入れた同棲だったけれど、俊樹の母であるみかも、もちろん俊樹自身もただ瑞貴の世話になろうなどというつもりは毛頭なかった。ある程度金銭的自立ができてから、という二人の言葉に「私からお願いしたのに」という困惑を瑞貴に抱かせた。
年上であること、医師という職業であること。加えて特別俊樹に甘いということからなかなか折れなかった瑞貴だったけれど、みかの鶴の一声による折衷案として家賃の半分を入れることで瑞貴の休日のみ仮同棲として共に時間を過ごすことと収まった。
「半分払ってくれているなら……」と瑞貴はますます困惑の色を深めたけれど、彼女と同じく頑固な俊樹は約束通り彼女が休みの日しか同棲予定の部屋に訪れなかった。そのためか訪れると瑞貴は当直明けであっても嬉しそうに「いらっしゃい」ではなく「おかえりなさい」と出迎えてくれていた。もちろん途中で呼び出しを受けて病院に戻ることもあったけれど、それでも俊樹にとっては充分満足であった。それどころか日々忙しく働く瑞貴の生活のサポートができるようになり、不在の日でも掃除や洗濯、一緒にいる時に教えてもらった料理を作り置きして置くことも出来て満足であった。そのことに気がつく度に瑞貴から電話が掛かってきて申し訳なさそうに謝ってくる。「好きでやってるんだよ」と答えても困ったように黙り込んでしまう、そんなところも愛おしいと感じてしまうのは惚れた弱みなのかそれとも恋の病いも末期なのであろうか。
様々なことがあり、半年掛かってしまったけれど、ようやく引越しの日を迎えた。とはいえ家財道具は既に瑞貴が揃えており、俊樹の私物も通う度に持ち込んでいたり、持ち物自体が少なかったので瑞貴が迎えに来てきてくれた車に収まる程度であった。
手伝う、と申し出た瑞貴の言葉を丁寧に断り何回か往復して運び込み落ち着くと「お疲れさまでした」とお茶を淹れて待っていてくれた。
「えっと、今日からよろしくお願いしますね」
「はは、もう勝手知ったるって感じだけど改めてよろしく」
ふと思い返す。まだ高校生だった頃、あの忘れられない一件の後に瑞貴が一人暮らしを始め、その部屋にもよく通っていた頃と似ていた。その時は二人暮らしを想定していなかったため、リビングダイニングと瑞貴の寝室兼仕事部屋と必要最低限の住まいだったけれど、此度一緒に暮らすにあたって以前勧められてすぐに決めた時とは違って二人で内見を重ね、瑞貴の勤務先と俊樹の大学にも通いやすく生活しやすい部屋に決めた。
カップを上品に持って猫舌である瑞貴は息を吹きかけて冷ましながら少しずつ紅茶を口に含んでいた。その様子は感情が表に出にくい瑞貴が珍しく喜んでいることが眼に見えてわかるほどに嬉しそうでまるで周りに花びらが舞っているかのように見えた。
今なら、このタイミングなら云ってもいいだろうか。
「あのさ、そろそろ敬語やめない? 年下の俺がタメなのも変だし」
「あ、」
カップをソーサーに戻してその手で口許を覆った。
「そう、ですね……椎名くんは学校も卒業して私も先生と呼ばれる立場ではなくなりましたよね」
医師という職業であることは変わらないので瑞貴の患者にならない限りはもう呼称しない呼び方ではあるけれど、縁起でもないのでその点は突っ込まないでおく。
「あとさ、呼び方も前みたいに名前で呼んで欲しいんだけど」
「ん」
無意識に俊樹くん、と呼ばれることは稀にあったけれどそれは本当に偶発的にしか起こらず、俊樹はやきもきさせられていた。未だに兄に嫉妬してしまう。気軽に、なんなら親しく俊也、と当たり前に呼び捨てにされていたことに。急に呼び捨ては瑞貴にとってハードルが高いかと思い、そこは急がないことにした。
敬語だって突き放しているわけではなく癖であることは俊樹も理解しているつもりである。それでも恋人になり、ついに同棲という夢も果たした。そのご褒美を求めてしまうのは傲慢であろうか。特別な存在だからこそ、他人とは違う特別になりたい。
「ん、うん……わかった、よ、俊樹くん」
好きな人に、戸惑い混じりに名前を呼ばれることのこの上ない多幸感は言葉にはならない。
壊れもののようにそっと隣に腰掛ける瑞貴の肩をそっと抱き寄せる。そのまま頬を包み込んでじっと瞳を覗き込む。淡い色合いの緑色の瞳が意図を察して薄らと膜を張る。すっと目蓋が降りて濃くて長い睫毛が日本人離れした彫りの深い骨格に影を落とす。受け入れてくれる合図である。
驚かせないようにそっと、やわらかく唇を重ねる。少造りな唇は重ねるどころか食らいついているようになってしまうけれどじっくりと、温度が近くなるまで重ねて名残惜しさを感じながら顔を離すと再び好きな不思議な色合いの瞳が現れ優しく眦が下がる。
「好きだよ、瑞貴」
さっと眼許に朱が差したように染まる。
「私も……俊樹くんが、大好き」
首許に顔を埋められて美しい顔が見られなくなったことは少し寂しく思えたけれど、これは瑞貴が甘えている時の癖なのでぽんぽんと手のひらに収まってしまう頭を撫でる。
「もう、また今度ではなくて……行ってらっしゃいと云えるのね」
「うん」
「帰ってきたら……おかえりなさいと云ってくれるのね」
「そうだよ」
甘えるように首筋に頬を擦り寄せられると陶器のような滑らかな肌の感触と好ましい香りがより強く鼻腔を満たす。
「……寂しかったの、生活費なんて気にしなくてもよかったのに」
少し拗ねたような口調に自然と口許が緩んでしまう。一緒に暮らす際に散々揉めた。すぐにでも一緒に暮らしたいと願った瑞貴とただ養われるつもりはない俊樹と彼の母と。終いには通帳まで差し出してきてその額には驚愕したけれど、それは瑞貴が必死に働き、彼女の為に使われるべきもの。それなら私のために、と食い下がる瑞貴を説き伏せることには苦労した。
「云ったでしょ、俺は瑞貴に頼るんじゃなくて頼られたいし、守りたいんだよ」
「それなら私だって、俊樹くんの力になりたい。勉強に集中してほしいからお仕事だって」
「それは駄目だよ。大学の勉強もそうだし、バイトだって勉強なんだよ」
「……?」
不意に顔を上げた瑞貴の表情は疑問に染まっている。ずば抜けた頭脳と才能を持って海外の有名大学に入学するや否や飛び級であっという間に卒業して直ぐに医師として現場に出た瑞貴には一般的な学生生活というものを理解させることは困難なのかもしれない。俊樹と同じ年齢の頃には既に数多くのオペをこなして経験を積んで帰国してきた瑞貴の経歴も同じように理解ができないのだから。
瑞貴は育ってきた環境に対して金銭感覚も正常で物欲もない彼女の貯金額は俊樹が社会人になって何十年勤めたらようやく追いつくかというものだけれど、その間にも瑞貴は増やしていくのだろう。医学書や必要なものしか買わない瑞貴はもっとお嬢様らしく、年頃らしくブランドものを求めてもいいはずなのに。
「……瑞貴ってさ、何か欲しいものないの?」
「俊樹くんとの時間」
即答されては参ってしまう。そんな可愛いことを云われてしまえば与えられるだけ与えたくなってしまうけれど、それには値段がつけられない。
「……おいで?」
膝の上を叩くと華奢な身体はふわりと重さを感じさせずに乗り上げてくる。腕の中にすっぽりと収まる身体を抱きしめて絹のような滑らかな髪に頬擦りする。
「それくらい、いくらでも」
こうして、待ちに待った同棲生活が始まった。
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