「ねえ、聞いた?」
「あれでしょ、十代から既に執刀してるとかいうとんでもエリート外科医」
「しかも有名人とか著名人しかオペしないんでしょ?」
「高難易度のオペ映像だけは共有されるけど年齢も何もかも非公開」
「あ、名前だけは公開されてるじゃん?」
「ああ、そうだ。論文本人執筆なんかね? 前まで英語で書かれてたのが急に日本語になってゴーストライターとかいるんじゃね?」
「そもそも朝香瑞貴って、どんな奴なんだろうね?」
「なんで最先端の設備が揃った神羅病院からうちに?」
「次期院長候補だったんだっけ?」
「今朝香息子が院長だし……まあ、あれだけ人間離れしたオペできるなら親関係なくエリートコースでしょ」
「まさかこっちの病院で院長になるとか?」
「まさかー……って笑えないのがほんと怖い」
「てか、やっぱ偉ぶってんのかな」
「あー、お前らとは違うみたいな?」
「そうそう、医大出なんて凡人みたいな?」
「うわ、関わりたくねえ。確か脳外科と整形だろ?」
「いや、それがなんか違うらしい」
「絶対うちの科だけは来てほしくないな」
「一体何者なんだろう?」
聖帝大学病院。母体である聖帝大学は日本一の偏差値を誇る大学ということもあり、数年前までは技術、患者数、認知ともに日本一の病院であった。しかし数年前に帰国した謎に包まれた外科医が神羅病院に勤務し出した途端、あっという間にその座を奪われた。
都心から少し離れた立地ということもあり、プライバシーやマスコミ対応に強く、何よりも海外で神の子、と呼ばれた天才外科医のオペを受けられるなら惜しみなく湯水のように金を落とす資産家。病気を隠したい有名人、聖帝大学病院で匙を投げられた患者など表向きは普通の病院だけれど、そんな訳あり患者も受け入れる最後の砦となり、外科医の間ではその名を知らない者はいなかった。しかしほとんどの情報が非公開であり、治療を受けた患者もオペ自体を隠匿しているので決して口を割らない。稀有な症例のオペ動画は共有されるけれどそのメス捌きは一切の無駄がなく洗礼されていた。
そんな謎多き外科医がライバル関係にある聖帝大学病院にやってくることとなり、院内の話題はずっとそれで持ち切りであった。
いつの間に訪れたのか。まさかこんなことが起こるとは思わず、さらに院内は人数が多く誰も目撃することはなかった。かといって院長に直接訊ねに行けるような心臓に毛が生えた猛者はおらず、いつやって来るのかと期待と恐怖、鬼が出るか蛇が出るか、魑魅魍魎の類いのように恐れられていた。ある意味それほど人間離れしすぎている存在なのである。
年度替りから数日後。緊急招集がかかり、事故かと身構えたけれどコードホワイトではなく、集合場所も講堂であった。ではついに? 思わず医師たちは顔を見合せて駆け出した。
講堂は医師、看護師でごった返していた。幕が引かれた壇上の向こうに噂の外科医は控えているのであろうか。マイクのノイズが走った後、院長の声とともに幕は上がった。
「忙しいところ集まってくれてありがとう。紹介しよう、本日から小児外科で勤務してくれる朝香瑞貴先生だ」
院長より少し奥に控えている医師はスポットライトが当たらず顔は見えなかった。ただ遠近法なのかとても小さく、華奢に見える。
院長からマイクを渡され、数歩歩み出たことでライトを浴びて露になったその顔にその場にいた全員が息を飲んだ。
「……ただいまご紹介に預かりました、朝香瑞貴と申します。今までは整形外科、脳外科を主に執刀しておりました。この度は小児外科に携わりたく参りました。まだまだ若輩者ではございますけれど、ご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願いいたします」
人形のように整った顔立ち、鼓膜をやさしく揺らす穏やかな声。恐らく国内でトップクラスの手腕を持っている医師なのにとても腰が低く、それがまったく嫌味に感じられない。まばらだった拍手が割れんばかりの拍手に変わっていき、頭を垂れていた朝香は頭を上げて綺麗な微笑みを浮かべた。その場にいた誰もが、眼も心をも奪われた。
謎多き外科医を受け入れた小児外科の医局は空気がいつもと違っていた。共に働くということもあり、医局長に伴われて現れた朝香は壇上で見た姿よりも小さく、しかし存在感は凄まじかった。今日は医療ドラマの撮影に貸出だったかと思ってしまうほどに非の打ち所のない美少女、と呼んでも謙遜ない朝香は笑みを浮かべて改めて美しい所作で礼をした。
「改めまして、朝香瑞貴と申します。小児外科オペ数はアメリカでまだ五千症例程携わりました。帰国後は千ほどです。こちらの岡部教授の元で学びたく参りました。何卒よろしくお願いいたします」
話終わると再び礼をする。不思議なことに白衣がドレスに見える。ここは舞踏会の広間だったであろうか。その場にいる医師たちは様々な予想をいい意味で裏切られて困惑していた。
「ということだ。基本的には私と行動してもらうことになるが、困っていることがあれば積極的に手助けしてほしい」
「はい」
医師たちは口を揃えて答えた。むしろこちらの方が聞きたいことが山ほどある。朝香はこの医局では後輩あたるけれど経歴や執刀数では明らかに上である。むしろ指導を受けたいのはこちらの方であると喉まで出かかるけれど、誰もがその言葉をぐっと飲み込んだ。
「では朝香先生、回診を。先天性心疾患の患者がいるんだが、君の意見が欲しい」
「かしこまりました」
医師たちも着いていきたい気持ちでいっぱいだった。もう入院して三年近くになる患者。ドナー待ちの状況であるけれど、間に合わなければ別のアプローチが必要となる。朝香はあの少女を見てどう考えるのか。気にならないわけがなかった。
歩き出す医局長に着いて行く前に医師面々に「失礼します」と会釈をして医局長を追っていく後ろ姿。良くも悪くも裏切られた。高飛車でも高圧的でも、自分の経歴を誇るでもない。しかしどうしたものであろうか、まさに神の子である。その手腕も、ビスクドールのような見目も。
難易度の高いオペはすべて来たばかりの朝香に割り当てられた。専門外であるオペも「お力になれるのであれば」とにこやかに快諾した。謎の外科医の執刀の現場に立ち会いたいと他科からも医学生からも見学希望が殺到して交代制という前代未聞の事態になった。交代制でも倍率は高く、平等に見学できるようにと一度見学すれば一周するまで見られないというルールである。
前立ちもオペナースも麻酔医も交代制。朝香の執刀を間近で見た医師たちは瞬きする時間すら許されないほどのスピードで動く朝香の手許を食い入るように眺めた。出血が必要最低限に済むように計算されたメス捌き、腫瘍はメスに張り付くようにするりと迷いなく切除され、縫合も手早く患者に負担をかけないことを最優先とされたオペで時間も極めて短時間である。急患があれば専門問わずに元々専門であった整形でもそのオペは美しいと形容するしかない。まるでロボットアームのようにミリ単位も寸分違わずに迷いなくメスを入れていく。手術用アンドロイドだと云われた方がまだ納得できるほど人間離れしすぎているオペはただ見るものを圧倒させた。
しかし、本人と話してみるとオペの時とは別人のように口調も動きものんびりとしていた。結局先天性心疾患の患者は朝香の担当になったらしく、今もナースステーションで会話をしている。
「なるべく負担をかけないように少しずつ投与をお願いします、しばらくはこまめにバイタルチェックをお願いしますね」
「はい、ところで……朝香先生ってお幾つなんですか?」
「? 二十四歳ですが……」
なぜ聞かれるのかと不思議そうに首を傾げる姿も可愛らしく見える。オペの時以外はとにかく別人のようになる。
「えーっ、もっとお若いと思ってました」
「ああ……、よく云われます」
ナースたちとの会話は必然のためかよく他愛のない話もしていた。
「彼氏さんいるんですか?」
「…………、はい」
耳まで赤くして朝香は小さく頷いて答えた。こんな近寄り難い神の子を口説き落とした人間がいるなんて信じられなかった。相手は同業者なのか。否、同業者は恐れ多くて無理であろう。ならどんな人間なのであろうか。
「やだー、先生かわいいー!」
「どんな人なんですか? やっぱり年上ですか?」
「あ、あまり揶揄わないでください 」
たじたじになりながら答える姿は実に人間らしい。
「今度ご飯行きませんー? いろいろお話しましょ?」
「お誘いはとても嬉しいのですけれど……、彼が」
申し訳なさそうに眉を下げて、しかし即答であった。
「彼氏さん束縛系なんですかー? まあ、先生みたいに美人が恋人だったら心配にもなりますよね」
「そうですか……?」
心底不思議そうな表情をしている。束縛されていることに気がついていないのか、自身の容姿に無頓着なのか。この神の子の場合両方の可能性がある。オペ以外にはあまり関心がないと云うのか世間知らずな浮世離れしている節がある。だからアンドロイドのようだと思うのかもしれない。
「じゃあランチ行きましょ! そろそろ休憩」
看護師の言葉を遮るように朝香の首から下げられている院内PHSが無機質な音を立てた。
「はい、朝香です」
コールを受けて申し訳なさそうに頭を下げて走っていった。恐らく急患であろう。それならば抽選関係なくオペの見学ができるとその場にいた医師たちも昼食そっちのけで走っていった。
多数の車が絡んだ事故だったようで次から次へと患者が運び込まれてきた。タグをつけて重症の患者が優先的に朝香に回されていく。内臓破裂に血管と神経の縫合、複雑骨折して露出した骨の処置、何をさせても朝香はものすごい速度で処置していき、大まかなところが終わると他の医師に任せてまた赤タグの患者の元へと走る。処置後はやはり手早く綺麗に縫合をしてまた次の患者へと対応する朝香に手が空いていた医師が前立ちを申し出ると無言で頷いて内臓破裂の処置を素早く的確に行っていく。ずっと見ていたためか朝香が次に求めるものが何となくわかり、厚かましいかと思いつつも血液吸引を行うと「ありがとうございます」とマスクから覗く眼許だけで微笑んですぐ患部へ視線を移す。「バイタルチェックお願いします」と声を掛けてそれを聞くとすぐに指示を出す。とにかく早い。まるで予めわかっているかのようで、手が止まることはない。素早い処置であっという間に急患室は静かになり、軽傷の患者にも朝香は声をかけながら励まし、傷口を縫合していく。
とんでもない医師だ。普段ならばこれだけの人数が一気に運び込まれればもっと戦場と化す救命室が穏やかであった。救命率も段違いである。最後の患者の処置を終えて運ばれていくとふ、と息を吐いて朝香は椅子に座り込んだ。
「朝香先生……?」
「……大丈夫です。集中力が切れてしまっただけです」
それは当然のことである。ほとんどの患者は朝香が処置をした。周りの医師よりも早く次々と自ら進んで処置に回れば疲労感も凄まじいもとであろう。少なくとも立ち会った医師は自分にはあれだけの対応をできないと思った。
少し落ち着いたようで朝香は椅子から立ち上がると歩き出した。思わず着いていくと自動販売機の前に立っていて迷わずボタンを押して商品を取り出していた。その手にあったのはいちごミルクのパックだ。
「ふふ、子どもっぽいですよね。皆さん珈琲を飲まれるのに」
朝香がゆったりとした手つきでストローを取り出して差し込み、吸うと漂う甘ったるい匂いはやけに新鮮に感じられた。
「牛乳は苦手なのですけれど、でもいちごミルクは特別なのです」
珍しく多くを語る朝香に医師は彼女が云う通り珈琲を買った。カフェインは頭を覚醒させる。しかし神の子にはいちごミルクが効くようで大分強張っていた身体からも力が抜けてきたようで普段通りのんびりした雰囲気を纏っている。
「お疲れさまです。血液吸引はとても助かりました」
「あ、いえ」
あんなに数多く対処していたのに覚えていてくれたのかと感心した。
「出血量が多くて早く処置しなければならなかったので先回りして患部を綺麗にしていただけたので間に合いました」
にこりと微笑む朝香。一回りも年下なのに、きっと潜り抜けてきた修羅場の数が違うのであろう。
「……誰も亡くならなくて本当によかった」
ふっと朝香は眼を閉じる。彫りの深い眼元や鼻筋に濃く長い睫毛が陰を落とした。いくら神の子でもそれは比喩。朝香にも救えない生命はあったのであろう。少しでも生存率を高めるために朝香は素早く的確に、重要な処置を休みなく引き受け続けていたのだと思われる。あの糸が切れたように座り込んだ瞬間、五時間近くずっと神経を研ぎ澄ませて集中力を持続させ続けていた。
朝香は間違えなく名医である。一人でも多くの生命を救いたい。ただそのためにメスを執っている。確かに経歴も手腕もずば抜けている。しかしそれは医師として当たり前に考える生命を救うために。それだけのために努力を続けた結果なのであろう。
だから決して高飛車でも高圧的でもなく、経歴を誇らない。
「さて、ずる休みはそろそろ終わりにしないといけませんね」
いちごミルクを飲みきったようでゴミ箱に紙パックをそっと捨てる。その所作まで美しい。
まだ働くのか、と驚かされる。先ほどまで急患対応に追われていたというのにすぐ小児病棟へ向かって歩き出した背中を慌てて追いかけた。
そういえば朝香院長の子どもは息子が一人だけという噂がある。しかし朝香はどこからどう見ても女性である。彼女は息子ではなく親戚なのであろうか。息子もまた人間離れした医師なのであろうか。
謎に包まれた天才外科医だったけれど、蓋を開けてみれば生命を慈しむ素晴らしい医師であることがわかった。
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