不感症の花売り娘。

 生きるのは面倒だ。今すぐ跡形もなく消える権利を与えられたら何の躊躇いもなく受け取るだろう。
 しかし、生きていることが面倒なことと同じように人ひとりが死ぬのもまた面倒なことだ。
 また戦争が始まるとか、交通事故に遭うとか、不治の病にでも冒されるとか。想像はするけれどそんなことは簡単には起こらない。
 だから、私はとりあえず、生きている。



「あっ、あん……っ、すごいよぉ……っ、おっきいの、気持ちい」
 痛い、苦しい。気持ちよくなんてない。何も感じない。感じるのは潤滑剤が掻き出されて粘膜が擦り切れそうな痛みだけ。お願いだから、早くこの時間を終わらせて欲しい。
 それには私の協力も必要不可欠だ。だから精一杯腰を上下させる。
──冷静な私が嗤う。本当に滑稽だと。
「君本当に可愛いね……っ、もっと声出してもいいんだよっ」
 痛い。腹の中をぐちゃぐちゃに掻き回さないで、と云ったら確実に白けるだろう。
 思ったことを口に出してもいいなら幾らでも言葉はあった。でも求められているのはそんなものではないと流石にわかっている。
 冷静に男を煽るための言葉を引き出しから探り出して、こんな不毛な時間を終わらせるために組み立てる。
「んぅ……だめぇ、恥ずかしいよぉ……は、あっ! そこっ、だめ……またイっちゃうからぁ……!」
 そこ、ってどこだろう。多分次もあったら別な場所でそういうことを云うのだろう、とどこまでも冷めた私が見下ろす。
「いいよ……っ、あ、やっぱり中で出していい? 追加で払うからっ、さ……っ!」
「あん……っ、いいよぉ……いっぱい、ちょうだい……っ!」
 ああ、よかった。どうせ同じ一回なら多くもらえる方が効率がいい。
 気を抜かずに意図的に身体を震わせて、絶頂を迎える振りをする。
 イくって、どんな感じなんだろう。
 毎日のように違う男と時間も問わずに乱れていたあの人の姿を思い出して、何となく情けない表情で欲を吐き出している男に縋りついてみた。
 男から追加分の代金を受け取って、見送った後浮かべていた笑顔をすっと消して浴室へ向かう。薬を飲んでいるから今まで失敗をしたことはないけれど、何となく他人の体液が身体に残ったままというのは気持ちが悪い。ただの身体に空いた穴に指を突っ込んでシャワーを当てながら濁りがなくなるまで洗い流す。気が済むまで処理をしてから頭からお湯を被って全身も清めていると退室の時間が近づいていて、慌てて軽く髪の水気を取って部屋を後にした。
 この時間は終わったけど、まだ夕暮れ時だ。まだ客を取ろうと思えば取れる。
 こんなことを繰り返して、生きるならばいっそのこと野垂れ死んだ方が楽なのではないかと思うものの、まだ私にその覚悟はなかった。
「あら、ミケちゃん。調子どう?」
「あ、こんにちは。椿さん」
 とぼとぼと私の頭上に隕石でも落ちてきて脳髄を破壊してくれないかと物騒なことを考えていると椿姉さんがこちらを見て、手を振ってくれていたのことに気がついて早足で近づく。
 椿さんは私が生きるための術を教えてくれた人だ。不感症なのも知っていて、色々と教えてくれる親切な人。この人がいなかったら私は既に野垂れ死んでいると思う。
「まずまずです……。」
「私もあと一人くらい来てくれたらねー」
 そう云って電子端末を操作する椿さんを見て小さく息を吐く。私も端末を持てたら少しは楽ができるかもしれないけど、契約をするための身分証がないのでどうしようもない。
「あら、あの人来てくれるそうだわ。またね、ミケちゃん。がんばって」
「はーい」
 ひらひら手を振って椿さんを見送ると無意識に深い溜め息を吐いていた。
「はあ……今日は帰ろうかな」
 気分があまり良くなくおにぎり一つでも食べれば十分な腹具合で、宿に帰ろうと一歩を踏み出した時だ。
「ねえ、今いい?」
 急に後ろから声をかけられて、振り返る。
 そこには背丈も高く、美しい人が立っていてその空気に圧倒されて思わず見惚れてしまう。
「あ……はい、大丈夫ですよ」
 この仕事、愛想が大事だ。慌てて笑顔を浮かべて取り繕うものの、どうしてこんな人がわざわざ女を買うのだろうか。
 特殊な性癖でも。例えば殴ったり、血が出るようなことをされるのだろうかと危惧するものの、この人がそんなことをするようには思えなかった。それに大丈夫、ともう答えてしまった。
「ちなみにペット族なんだけど問題ない?」
 帽子を外して軽く頭を下げられると頭上に獣の耳が生えていた。ペット族の存在は知っていたけど、ペットを呼べるのは一定の収入がある、つまり富裕層と呼ばれる階級の人間だけで私には縁のない存在だった。
 本当にいるのだと、思わずその耳に触れてみたくなる。でもそれは失礼だ。
「大丈夫ですよ」
 そう答えると男は笑った。ペット帝国は男性、彼らの場合はオスと呼ぶ方が正しいのだろうか。同性しかいないらしくそれならば女(私はメスなのだろうか?)を求めるのは別段可笑しな話でもなく、最初の疑問に納得して歩き出したオスに着いていった。

☩ ☩ ☩

 連れてこられたのは、私のような人間が立ち入ったら何かを云われるのではないかと思うようなきちんとしたホテル。それに言葉を失っていると男はふかふかなソファに私を座らせて受付と思われる場所に歩いていった。
 きょろきょろと辺りを見回すとやはり生きている世界が違う人々がいたけど、私のことは特に見えていないようで普通にしている。逆に見回す方がはしたないのかもしれないとは思うものの興味は尽きずに、飾られた骨董品やら絵画を眺めてしまう。
「あ、あの……本当にここですか……?」
 手続きを済ませたらしい男がきて、知り合いでも何でもないけど知っている人間が来た安堵から本音がこぼれる。
「そうだけど、ご不満かい?」
「ち、違います……そういう訳では……」
 例えば仲のいい恋人同士が睦み合う場所としてはとてもお誂え向きの場所だと思う。素敵な選択だと夢みたいなことを思う。
 しかし、彼は客で、私は売女なのだ。
 普段は安いモーテルやら、あまり好まないけど裏路地でそのまま、ということもあるだけにどうしても受け入れ難かった。
 それでも男は歩き出してしまうので、こんなところにひとり置いていかれても困る私は着いていくしかない。
 もしかして、このまま変な薬でも嗅がされて、ばらばらにされて売り飛ばされるのだろうか。
 それならそれで構わないと、扉は音もなく閉まり、自動的にかちりと硬質な音を立てて錠はかけられた。
「先にシャワーどうぞ」
 着いて来てしまったのだからもう仕方がない。ばらばらにされようと、殴られようと、とにかく私は仕事をするしかない。
 ばらばらにされたら、何もできないけれどそれはその時に考える。
「お先に」
 男が浴室に行くと、部屋は静かになる。窓辺に行くと日が落ちつつあり、少しずつ高層の建物の光がきらきらと灯りが灯り始めていた。
 地上から見上げても空は広いのに、高いところに来てもそれは変わらずただ遠かった。
 まだ明るい空に消えそうな三日月が見えて、やはりそれにも手は届かない。
 理解はしているものの、空に近づけば星も掴めるのではないか。なんて夢みたいなことを思ってしまう。
 滅多に見られるものではないとしばらく景色を眺めて眼に焼き付ける。
 そして落ち着きなく部屋をぐるぐると歩き回っていると寝室が別にあって、そこには見るからにふかふかなベッドが置いてあった。
 まるで、すべて受け入れるから飛び込んでこいと声が聞こえてきそうなどっしりとした貫禄があるベッド。
 これからここで男と仕事をする場所だとはわかっているのだけど、甘美な誘惑には抗えずに床を蹴った。
「ふかふかー……」
 これが包容力か。いつも寝ている宿の煎餅布団とは雲泥の差で思わず清潔な香りがするシーツに頬擦りしてしまう。
 気持ちよくて、すべてを投げ出してしまいそうになる。死ぬ時はこういう布団の上がいいな、とばたばたと脚を動かしてしまう。死ぬ時の妄想が楽しいなんて、やはり私は何かに取り憑かれているのだろう。
「……お気に召した?」
「っ!?」
 後ろから聞こえた厭に耳の奥まで滑り込んでくる低音にベッドの上に正座して恐る恐る振り返る。雫を纏ってより妖艶さを増した美丈夫がそこに立っていた。髪から水滴を滴らせるその姿はまさに水も滴るいい男で、何も言葉が浮かんでこなくて必死に何度も頷いて意思を伝えた。そうだった。ついつい思考を放棄していたけど、私は仕事をしに来たのだ。
「そう、ならよかった」
 くすりと男は笑って、背後から伸し掛られて再び上体も包容力が高いベッドに押し戻される。
「あ、あの……私もお風呂行きますね……」
 このまま、というのはとても無理がある。不感症の私には色々と準備が必要なのだ。
「別に、このままでもいいよ?」
 ぺろり、と頸を舐められてよくわからない、寒気のようなものに襲われる。それは別に気持ちが悪い、という拒否反応とはまた違って、余計に頭が混乱してくる。
「だ、だめです……」
 何とか言葉を絞り出すと男は上から退いてくれた。
「女の子に無理強いは良くないね」
 美丈夫とは余裕があるのだな、と他人事のような感想を抱いた。まあ実際他人事だ。こんな人と、そもそも誰かと共に生きることなんて、私には縁のない話なのだから。
 仕事道具を入れた鞄を持って浴室へ入る。そこは私が借りている部屋と同じくらいの広さで、やはり余裕があるのはいいことだな、とよくわからない何かに対して納得をした。
 切迫して生きているよりも、でも私は早くこの生を終わらせてしまいたくて。
 今この思考を展開するのはよろしくないと強制的に断ち切って、切り替える。
 シャワーを浴びると、石鹸がとても清潔ないい匂い。そんな香りに自分が包まれていると思うと少し気分がいい。
 そして、嫌な時間だ。鞄から注入式の潤滑剤を取り出す。中に挿入してトリガーを押すと冷たい液体が流れ込んでくる。何度繰り返してもなれない感触だ。
 しかしこれを怠ると酷い眼に遭う。もちろん挿入前にも塗り込みはするし、相手にもこれでもかと塗りたくるけど、指が届かない部分は擦り切れて、以前流血沙汰を起こしたこともある。
 私の不感症は根深すぎて、まったく濡れない。なのにこの仕事をしていることが本当に自分でも非効率的だと思う。でもこの世界に存在しない私は普通に働くことができないし、楽をしてお金が稼げるほど世の中が甘いものだと夢見る齢は疾うに過ぎた。
「……ふう」
 指で馴染ませて問題ないと確認してから浴室を出た。
「……おいで」
 厭に男の低音は鼓膜を擽ぐる。見目もいいのに、声もいいなんて非の打ち所がない。
 そんな人にこれから抱かれるのかと思うと、不思議な感覚になる。本当になぜ私を選んだのだろう。
「NGは?」
「ありません」
 正直血が出るまで殴られたりするのは支障が出るから困るのだけど、不思議なことに今までそういう人に当たったことはない。
 それに、殴られること自体は別にどうでもいいのだ。理不尽に与えられる痛みなんて、ただ黙って甘受していればすぐに過ぎ去るのだから。
「追加で料金いただければ生も中出しも大丈夫です」
 正直こういう人はそんなことに興味はないと思った。ただいつも云う言葉だからつい流れで口にしてしまったのだ。
「薬飲んでるの?」
 こくりと頷いて男の言葉を肯定する。この男は本当に驚かされてばかりだ。そんなこと、今まで聞かれたことなんてなかった。例え妊娠させたとしても責任を負う気なんてないのだろうし、問うつもりもない。それともペット族には何らかの罰則でも存在するのだろうか。
「うーん、どうしようかな……」
 更に意外なことに、男はすぐに断らなかった。先程の問いは何のためにしたのだろう。
「失礼、します」
 こういったホテルは時間が決まっているのかわからない。とりあえず好きなだけ悩んでもらうとして、先に行為を始めさせてもらう。
 できるだけ、早く苦痛な時間は去ってほしいものだから。
 そのつもりで、ガウンを捲ると眼の前に現れたものに思わず息を飲んだ。
 『すごい、おっきい』なんて、鼻にかかった声で褒めてやれば大体の男は喜ぶからあまりにもサイズが小さくない場合はそう口にしていた。
 しかし、本当に長大なものを見るとそんな言葉なんて出てこないのだと身を以って知らされた。できれば知りたくなかった。
 まったく反応をしていないのに脚の間にだらりとぶら下がっている恐ろしさを覚えるほどに程に存在感があり過ぎるそれに恐怖から身体が竦む。これはもしかすると久しぶりに流血沙汰になるかもしれない。その時はその時で、こんなに大きいのは初めてで、とか適当に云い訳をすればいいだろうか。
 ここまで来て、すみません。お客様のサイズは対応していません。なんてことを吐かす訳にもいかない。ごくりと唾を飲んで覚悟を決めて口を開いて先端を咥えようとするもののそれすらも難しい。
(反応していなくてこれって……勃ったらどうなるんだろう……)
 舌を動かしてみようと思っても口の中がいっぱいいっぱいで隙間がない。含むことは諦めて先端の方に集中して唇や舌で愛撫する。唾液を垂らしながら指先で裏筋を撫でながら上下に扱く。
 それは大きくなっていく一方で、まったく完成形が見えない。流血どころかそもそも入らないのではないかという危惧さえする。
 先に吸い付きながら尿道を舌先でくすぐるとどぷっと先走りがあふれてきて啜る。あまり飲むのは好きではないのだけど、なぜかこの人のものは嫌な気がしなくて、現金なものだと苦笑いが浮かんでしまう。
「疲れたでしょ、ありがとう」
 本当に余裕がある人は。こんな風に云われたことなんて一度もない。勃ったらすぐに挿れる。律動を繰り返して吐き出してさようなら。そんな簡素なやり取りばかりで、それが当たり前の私にはそんな労いが嬉しくて、撫でてくれる手が優しくて。 
 口を離すと飲みきれなかった唾液や先走りが混ざったものが溢れてくる。嫌な顔をせずにそれを指先で拭ってそのまま頬を撫でられるともう口を塞がれている訳では無いのにぎゅうと、胸が苦しくなった。
「触ってもいい?」
 それは、殴りたいということだろうか。しかし充分に優しくしてくれた。だから頷いてみせると、身体を軽々と抱き上げられてあのふかふかなベッドに寝かせられる。
「脚、開いて?」
 え、と思った。まさか私の身体を愛撫しようとしてくれていたのかと。疑った数秒前の自分のことを酷く恥じる。
 しかし、私は感じることができない。それならば早く突っ込んで、好きなように動いてくれた方が嬉しい。
 私の身体で、気持ちよくなってくれるなら。それで充分なのに。
 指先は優しく、会陰をなぞる。陰核だけは何とか感覚はあるものの、擽ったくてむずむずして脚を開いていろと云われたのに閉じてしまいそうになる。
「借りるよ」
 中に触れる時も潤滑剤を指に纏わせてくれて、痛みはなかった。ただ異物感だけは拭えなくて。それでもその優しさが嬉しくて何とか感じている振りをしたい。楽しませたいと思った。
「ん……っ、気持ちい……もっと、触って……気持ちい……」
 普段ならなんてことなく言葉なんて浮かんでくるのに、どうしても空虚なものになってしまう。
 心はとても嬉しくて、こんなに感じているのに。
「……挿れてもいい?」
 奥までしっかりと広げて、塗ってくれたから痛みはないだろう。たとえ痛くても、切れたとしても構わなかった。
 ちゃんとこの人が、気持ちよくなってくれれば。
「生でいい?」
 こく、と頷く。好きなようにしてほしい。それなのにこの人は優しく訊ねてくれて。心が温かくなる。
 男自身にも潤滑剤を塗ってくれて、ふと深く息を吐いて身体の力を抜く。どうやら私の中は狭いらしい。だからこの人に痛みを与えてはいけないと思った。
「っ……はっ、な、な……っえっ……?」
 ぐちゅ、と湿った音を立てて入り口に押し当てられるとぎゅうっと下腹部が引きつけを起こした。まるで熱が出る前兆のような寒気がして中がむずむずしてくる。
「や……っ、い、挿れて……っ、中……へん、変なの……っ!」
 どうしていいのかわからなくて立派な腰に脚を絡めてはしたなくねだってしまった。
 今まで痛みしか訴えてこなかったくせに、突然知らない感覚を知らせるなんて自分の身体に裏切られた気分だった。
「っあ、ああぁ……っ、あ──……っ!」
 ぬるりと、先端の部分を挿れられただけで勝手に声が喉をついてあふれる。
 窺うように少しずつ腰を進められているのが焦らされているようで、早く満たして欲しくてじたばたと身体が勝手に暴れる。
「はっ、あ、あっ……! ああぁ、あ、あっ!」
 お腹が切ない。まるで月経前のように重たるくて、そこをぐっと押されると眼の前が白くなって。全身が震えて、自分の身体なのに何ひとつ思い通りにならない。
 そんな恐怖に余計に身体は逃げ出したくて暴れ出す。男の腕に抱きしめられてその温度に安堵する間も無くまた腰を引いて奥を突き上げられるとばたばたと足がシーツを蹴る。
「……挿れただけでイっちゃったの? 悪い子」
 耳許で意地悪く囁かれて、その声すらもざわざわと正体不明の感覚を煽って涙で歪んだ視界に男を探して、初めて自分が泣いていることに気づいた。
 イったことなんてないからわからない。でも経験豊富そうな男が云うのだからそうなのだろう。
 今はとにかく中を擦り上げられて、奥を突かれる度に襲ってくる恐怖に近い感覚をどうやり過ごすのか、痛みよりも優しくて、なのにはじめての感覚は怖かった。
 自分が何を口にしているのか、それすらもうわからない。
 まるで自分が自分で無くなっていくような。
 それなのに、なぜかいつしかその感覚に安堵してしまう。
 それは、一度死んでしまったような。薄れる意識の中で生の中に死を見出して、それに私は魅入られた。
 こんな擬似的な死の体験を味わってしまったら、抜け出そうとも思わずにずぶずぶと深く沈んでいくことしかできないだろう。
 これは確かに依存してしまうほど、甘美な毒だ。

☩‎ ☩ ☩

 意識を取り戻すと、もう男の姿はなかった。どれだけ意識を失っていたのかわからないけれど、それが少し寂しい。優しくしてくれてありがとう、と気持ちを伝えたかった。
 でもそれは私が一方的に伝えたいことで、彼にとっては些末なことだろう。
 身体を起こそうとすると下腹部が酷く痛んだ。月経の時以外存在を意識していないそこが、あの時確かに私が可笑しくなる前触れを告げていたのだ。
「……ええっ!?」
 ベッドの脇に何となく視線を向けると、そこにはとんでもない大金が置かれていた。
 もしかして、何か臓器がなくなった? むしろお腹が痛いのはそのせい?
 下らないことを考えたけど、当然傷口もなければ五体満足だ。
 お金の上にメモが置かれていて、そこには綺麗な見目に反して少し崩れた文字で「朝までゆっくり寝ていって」と書かれていた。
 本当に完璧な人だと思った。きっとペットの中でも人気があるのだろう。
 そんな人が、暴力を振るうわけでもなく、ただ優しく抱いてくれたことが本当に不思議でならない。
 ころり、と。ベッドに再び横たわる。そこには少しだけ彼の匂いが残っていてまた腹がじくじくと熱を持つ。
「不思議な人だなあ……」
 けれどもう二度と会うことはないのだろう。
 あまりいい人生ではなかったけど、時々彼のことを思い出してしまうだろう。
 こんな私に、優しくしてくれた人がいた。
 それだけでも、十分にいい人生だった、なんて。
 死ぬ勇気もないくせに、そんなことばかりは考えてしまうのだ。
 少し微睡んでから時計を見ると朝になっていた。
 再び宿の部屋と同じ広さの浴室で身体を洗う。髪を洗っているうちに脚の間からどろりと彼が出したのだろう精液が伝ってきて、それにしたってあの金額はもらいすぎだと頭が痛くなる。
 ペット族と会えるのは、富裕層だけ。返したくてもあのお金を返すことはできないのだ。
 中に指を入れても、あの時のように何かを感じる訳でもなく、ただ異物感だけがある。
 あれは一体何だったのだろうか。水に濁りがなくなるまで洗って再びシャワーを浴びる。
 さっぱりとして、部屋を出てロビーまでエレベーターで降りる。
 やはりこの空気には馴染めなくて足早に出て行こうとする。
「失礼します、よろしいですか?」
「えっ!?」
 ここのスタッフと思わしきしっかりと制服を着込んだ人に唐突に声をかけられて声が裏返った。
「朝食の御用がございますので、こちらへどうぞ」
「は、はあ……?」
 よくよく思えば、昨日は丸一日何も食べていなかった。元々具合も悪くて食欲がなくて気づいていなかったけど、食べ物のいい匂いを嗅覚が捉えると現金なことに途端に空腹を感じた。
「い、いただきます……」
 どう考えてもこの場に不釣り合いだとわかっている。それでも野暮な視線を送られることすらない。
 きっとそういうものなのだろうと席に案内されて、何でも好きなだけ食べていいという魔法の言葉を聞かされて、耳を疑った。
 周りをこそこそと盗み見するとお皿やカップに好きなものを好きなように盛って、食べているようだった。
 食べ物が置かれているところに行くと、炊きたての湯気が立つお米に、見るからにふかふかなパン。存在だけは知っている多分シリアルというもの。それに瑞々しい野菜に色鮮やかなスクランブルエッグ。カリカリに焼かれたベーコン。温かそうな湯気を立てるお味噌汁に、コーンスープ。ヨーグルト、フルーツ……そろそろ眩暈がしてきた。
 これを、好きなだけ食べていいなんて。ここには既にいない彼に感謝をしつつ、いろいろなものをお皿に乗せてきてテーブルに置いて椅子に座る。
「いただきます……」
 手を合わせて、小声で云う。とろとろのスクランブルエッグをスプーンで掬ってぱくりと口に入れる。
「お、美味しい……」
 卵なんて贅沢品だ。それをこんなにたくさん食べたら罰でも当たってしまいそう。でも美味しくて次々と口に運んでしまう。
 生野菜も、むしろここにあるすべては贅沢品だ。何を取っても美味しくてついつい食べ過ぎてしまった。
 もしかするとここにあるものを一通り食べてしまったかもしれない。
 この天国に案内してくれた人がちょうどレストランの入り口にいたので「ごちそうさまでした」と声をかけると「よい一日をお過ごしください」と微笑んで答えてくれて、感心してしまう。
 良い一日を。いい言葉だと思った。