蛹は蝶の夢見て眠る。-出会い-

 一人暮らしをしている部屋があまりにも汚いと、勝手に親がペットを要請し、それで派遣されてきたのが、比留間ミケだった。

「かわいい家政夫さん、期待してた? 俺みたいのでわりぃな。」

 そう、比留間はおどけて笑ってみせた。親以外と接点が薄い僕はどんな奴がくるのか気が気でなかったので、まあ面倒くさそうな奴ではなくてよかったと思ったのが第一印象。確かにちょっとかわいい子がきたらいいな、と邪な考えを持っていたことは否定しないが、別に云う必要はないと思い、黙っておく。
 「どうぞ。」と扉を開けて招き入れると「お邪魔しまーす。」と気の抜けたような返事をしつつもきちんと靴は揃えている。
 不思議な奴だと思いながら親以外に見せたことのない部屋に入った比留間の反応を窺っていると、特に何も云わなかった。
 「汚い。」とか「散らかってる。」と云われると思っていただけにこちらも気が抜けてしまい、思わず自分の方から「汚いだろ。」と声をかけてしまう。

「んー、別に。じゃあ片付けっからあんたはいつも通り過ごしててよ。」

 そう云って比留間は作務衣を紐で結んで袖が落ちてこないようにすると、台所に向かって何週間分溜めたのかわからないごみを集め始めた。
 いつも通りに過ごせと云われても、ほぼ初対面のペットが仕事とはいえ自分の不始末を片付けているところで何もせずにいられるほど自分の面の皮は厚いと思っていない。
 とりあえずあまり触れられたくない机の上に散らばっている原稿をまとめたり、下に落ちているごみを拾っていると、「別に楽にしてていいんだぜ? でもありがとな。」と台所から声をかけてきた。
 別に比留間のためにしたことではない。自分が見られたくないから勝手に片付けているだけだ。それでも誰かに礼を云われることなど久しぶりで少しだけ、心が震える。



 それから黙々と二人(一人と一匹?)で掃除を進め、長年見ていなくて何色だったのか記憶にない床が現れた。白だった。

「お疲れさん。腹減ってるだろうから何か作ってやりたいんだけど……。」

 比留間の云いたいことはわかる。だから別にいいのだと首を振った。

「いい。こっちこそ何もなくて悪い……。」

 自炊をしない我が家の冷蔵庫には飲み物しか入っていない。それは掃除の過程で比留間が知っていても不思議なことではない。

「ん、いいよ。じゃあ……。」

 おもむろに眼を細めて、比留間は突然身体を寄せてきた。突然のことに動けずにいるとそのまま腰から太ももを何とも云えない手つきで辿って、最後に股間を撫で上げられると「うわっ!」と自分でも情けない声が飛び出した。
 そんな僕の反応に比留間は「かわいー。」と耳元に唇を寄せてくすくすと笑い声を吹き込む。そのくすぐったさに耐えきれず思わず彼を突き飛ばしてしまった。

「あっ……悪い。でも、なんで突然こんな……。」
「あー……だいたいコレもセットだからさ、ごめんな?」

 非力な僕が突き飛ばしたといっても、元生物兵器の比留間は自分の意思で距離を取っただけで、まったく動じていなかった。それどころか幼子をあやすように頭を撫でてきて、その手つきは先ほどのように艶を含んだものではなくても妙な心地にさせられる。

「じゃ、これから買い出しでも行く? しないなら時間まだあるからさ。」
「えっ……えぇっ!?」

 別に比留間とそういうことをしたかった訳ではないが、何となくしないと云われると惜しい気がするのはなぜだろうか。
 しかし、比留間はすっかりその気が失せたらしく、元通りゆるい空気をまとっていた。

「何食いたい? 好きなもん作ってやるよ。」
「え、いや、あの……、その……。」

 「ん?」と比留間は答えを急かすことはせず柔らかな笑みを浮かべたまま、見つめてくる。
 最初はかわいいペットにきてほしいと思っていた。
 そして、そのオスとどうこうなるなんて考えもしなかった。

「お、オムライス……。」
「ん、りょーかい。」

 また僕の頭をぽんぽんと撫でて部屋を出て行く比留間。その足音が遠ざかると急に膝が笑い出してそのまま床に座り込んだ。
 どうせもう二度と会うこともないであろう相手だ、恥も外聞もかなぐり捨てて云ってしまえばよかったのかもしれない。
 でも、異性相手にももちろん同性相手にも経験のない僕が、それを口にするにはとてつもなく高い壁が立ちふさがっていた。
 童貞。たった二文字の言葉のくせに、その威力はとんでもなく凄まじいのだ。


* * *


 比留間が僕の部屋に訪れてから一ヶ月が経とうとしていた。
 あの後食材を買って帰ってきた比留間に希望通りオムライスを作ってもらい、それを一緒に食べて、片づけると彼は特に何も云わず帰って行った。
 あれからペット帝国について調べたが彼らには指名順位というものがあり、比留間はネコ族では二位という人気の高いペットだったこともわかった。
 確かに見た目も悪くなく、愛想もよければ、こんなコミュ障の僕の相手もさらっとこなしてしまうのだ。需要は高いだろうと思う。
 それなのに、なぜ「また呼んでほしい。」と比留間は云わなかったのだろうか。指名は多ければ多いほどいいのではないのだろうか。
 それともたった一日でもう二度と会いたくないと思わせるほどに、僕は比留間に嫌われたのだろうか。
 考えれば考えるほど深みに嵌まっていくようで、抜け出せなくなる。
 何度も比留間を呼ぼうと思ってページを開いた。けど確定のボタンが押せずにそのまま閉じることを何度も繰り返した。
 まるで恋煩いをしているようだと自嘲していると、また親が勝手にペットを要請するレベルまで部屋が散らかっていた。
 今度はどんなペットが来るのだろうか。叶うのならばもう一度比留間に会いたいと、僕は願っていた。


* * *


「よっ。元気だったか?」

 今まで存在を信じていなかった神は僕の願いを聞き入れてくれたのか、扉を開けるとずっと画像で見ることしかできなかった比留間が眼の前に立っていた。

「あ、うん……まあ。」

 こういう時、感情があまり表に出ないタイプでよかったと思う。内心今すぐ比留間に抱き着きたいほどに浮かれていたが、彼から見た僕は相変わらず表情が乏しいだろう。
 「邪魔するぜ。」と比留間は前より砕けた様子で入ってくるものの、やはりちゃんと靴は揃えて入室する。
 そして以前と同じように作務衣をまとめる後ろ姿を見ていると、長めの襟足が動きに合わせて揺れて曝された白い項が視界に入った。慌てて視線を下に向けると今度は白い帯で結ばれていることにより強調されているように見える細い腰に眼を奪われ、思わず生唾を飲み込む。
 思わず掴み掛かりそうな衝動に耐えていると急に比留間が振り返って、自分がどんな視線を向けられているのか気づいていないような顔で笑った。

「じゃ、あんたはあんたで好きにしててな。」

 そう云って比留間は掃除に取りかかる。そんな姿を盗み見ながら、今回はあまり散らかしていなかった机の周りを片づけていた。

 以前より散らかっていないためか掃除はすぐに終わり、比留間は作務衣をまとめていた紐を外して一息吐いた。

「今日は何食い」

 比留間は言葉を途切れさせる。それは僕に押し倒されたからだ。

「……コッチはいいんじゃなかったっけ?」
「う、うん……。」

押し倒したまではいいものの、その後のことは考えていなかったのでまっすぐな眼で比留間に射抜かれると頷くことしかできなかった。

「しかも、俺のこと抱きたいの?」

「う、うん……。」

 「ふーん……。」と比留間は眼を細めて顔を横についた僕の手を引き寄せて自分の頬に触れさせる。片腕だけで自分の体重を支えることは意外と困難で小刻みに腕を震わせていると比留間はくすくすと笑った。
 前回一瞬見せられた艶っぽい笑い方に背中を冷たい汗が伝う。それでも本気だということを伝えるためにじっと視線を逸らさずにいると比留間は小さく頷いた。

「いーぜ。俺のこと、好きにして。」

 薄く唇を開いてその隙間から赤い舌がちらりと覗く。どんな感触なのか知りたくて唇に親指を触れさせるとざらりとした感触が指先を撫でた。
 その艶かしさに頭にカッと血が昇った瞬間、比留間の表情が驚きに染まる。

「ちょ……っ、まっ、血、血ぃ出てる!」

 血? そう云われて自分の顔を触るとぬるっとした液体が付着し、見てみると確かに赤かった。

「上向け、上!」

 先ほどまでの妖しい雰囲気などまるでなかったかのように比留間は慌てて僕の下から抜け出して、ちり紙を取りに行く。
 やはり童貞の僕に比留間は手に負えないのだろうかと落ち込んでいると、顔を上向かせて血で汚れているのだろう顔を濡らしたちり紙で甲斐甲斐しく拭いてくれる彼に「ごめん……。」と云いながら心の中で涙を飲んだ。



 結局前回と同じように僕が食べたいと云ったハンバーグを作ってもらい、一緒に食べた。その間比留間が何か話しかけてくれていたが、僕は上の空で会話は成立していなかったと思う。
 後片づけを終えた比留間を見送りに玄関まで来たものの、何と云って見送ればいいのかわからず、立ちすくんでいると不意に頬に温かな感触があった。

「またな。」

 頬に口づけられたとわかった時には比留間はすでに歩き出していた。けれど次の約束をしてくれた言葉に胸がいっぱいになって思わず駆け出していた。
 その足音に気づいた比留間は立ち止まり、振り返ってくれる。走ったのなんて久しぶりのことで僅かな距離にも関わらず息が切れた。

「つっ、次はがんばるから!」

 今僕はどんな表情をしているのだろう。おかしな顔をしていないだろうか。
 そんな不安をかき消してくれるように比留間は優しく笑って「期待してる。」と云って今度こそ振り返らずに歩き始めた。
 その背中を見つめながら、今度こそ自分の意志で比留間のことを指名しようと心に決めたのだった。