お互いの事情。 (少年Aの告白/君は許してくれますか?)

 真理の部屋に帰って来て、話よりも先に藍はシャワーを浴びる事にした。
 身体にありありと残っている神谷と担任の痕跡を早く消し去るために。
 シャワーを浴び終えた藍はタオルで水滴を拭き取った。そして一緒に籠に入っていた真理の大きな服を羽織り、安堵の息を吐く。
 余る袖と裾を捲ってから洗面室を出てリビングに行く。ソファで真理は紅茶を飲みながら真剣な表情で何かを考え込んでいた。しかし、藍が出て来た事に気付くと表情を和らげる。
 この人に、全てを話してしまいたい。抱えている、すべてを。
 この人なら受け入れてくれると確信に似た感情が藍の中で芽生えていた。
 向かいではなく隣に腰を下ろす。真理は何も云わずに藍の前にカップを置いて紅茶を注いだ。そのカップを両手で持って少し口に含んで喉を潤す。

「さて……何から話したら良いのかな。」

 真理も紅茶で口を潤して。身体ごと藍に向けて座り直した上で、口火を切った。

「まずはあの刑事についてかな、あの人は何度か話に出て来た僕の兄。ちなみに父も警察関係だよ。」

 藍もカップを置いて真理を真っ直ぐ見据えて話を聞く。真理は明言しなかったがあの時の警官達の真理に対する態度から察するに、真理の父親は警察の中でも立場が上にある事が何となく想像出来た。

「最近少年がホテルに男を誘い込んでは相手から金銭を奪って逃げると云う事件が多発しているらしくて、兄はその事件を担当している。」

 少年。確かに藍はその条件に当て嵌まっているし、後ろ暗い事もあるために他人事とは思えない。が、犯人像としては漠然としている事が素人でも判る。

「被害者は口を揃えて少女のように綺麗な少年だったと証言しているらしくて、その曖昧な情報から調査をしていた兄は藍くんを容疑者候補に入れた。」
「……!」

 確かに藍がして来た事は売春紛いの事だ。現行犯であれば相手は捕まり、自分も補導されるだろう。よく今まで警察のお世話にならなかったと藍は複雑な心境になる。

「藍くんは覚えているかな、夏頃にうちの学園の見学に来たでしょう?」
「うん……行った。」

 先ほどの話がまだ尾を引いていた藍は無意識に答えた。それでも答えを聞いた真理は少し嬉しそうに笑って、言葉を続ける。

「あの時一言二言だけど、言葉を交わしたんだよ。」
「え……?」

 真理は懐かしんでいる様子だったが、藍には記憶がなかった。見学には確かに行った。しかし特に何を見たとか、何かをしたと云う記憶はまったくと云っていいほど、残っていない。

「藍くんが職員室はどこですかって僕に聞いて、案内した。たったそれだけの出来事だから覚えていなくて当然だよ。」
「でも……、」

 真理は覚えていてくれた。藍はその事がいたたまれなくて、視線を落とす。
何のために職員室に行ったのか。その記憶すら探してみても見付からないのでは、真理の記憶がないのも致し方ないのかもしれないが。

「その時の藍くん……とても淋しそうで、あの子は絶対にやっていないって直感的に思ったんだ。」

 夏頃は確かに状況として一番酷かったと思う。最初は危険な事には手を出さず、級友たちを頼っていた。
 しかし、それが出来なくなり、毎日掲示板で泊まる家を探していた頃。
 今のようにある程度泊まる場所が定着していなかった。その上、ほぼ毎日対価を求められて男に抱かれていたあの頃は、心身共に消耗していた。

「だけど兄さんは思い込んだら中々周りの云う事を聞かない人でね、まだ綺麗な少年って云う情報しか無かったのに藍君を犯人に絞り込むから。」

 どきっと。真理の言葉に胸が高鳴る。あの眼に、自分は綺麗に映っている事が判って藍は嬉しくなった。

「それから僕は藍くんの無実を証明したくて、藍くんの事を調べている内に、あの日の現場を見て接触してしまった……後は藍君が知っている通りだよ。」
「そうだったんだ……」

 たった一度、言葉を交わしただけの藍を真理は家族よりも信じて庇ってくれた。

「俺は……忘れていたのに、」

 どうしてもこの一点だけが、悔やまれる。せめて真理の事を覚えていれば、あそこまで彼の事を警戒しなかっただろう。

「……思えば、一目惚れだったのかな。」
「えっ?」
「あ、」

 互いに顔を見合わせて赤くなった。先の言葉を真理は無意識に口にしたようで、慌てた様子で藍から視線を逸らす。

「あ、えーと……以上だけど何か質問はあるかな?」

 咳払いをして、気まずい雰囲気を払拭するかのように真理は沈黙を破った。
真理がくれる言葉はいつも優しい。決して押し付けがましくなく、意識していなければ気付かないほど自然なもの。
 それを藍は心地好いと思っていた。腫れものを扱うような対応か、汚いものを見るような視線。
 1人になって初めて与えられた愛情を前に。藍の裡では気付かない振りをしていた飢えが、はっきりと姿を見せた。

「佐野さんは……俺を愛してくれる?」

 聞きたい、その唇から直接。同じ気持ちだと、聞かせて欲しい。

「藍君……。」

 優しい指先が髪を撫でる。無償で与えられるその深い優しさに背中を押され、藍はすうっと思い切り息を吸った。

「……みんな、俺をアイしてるって云った。一番最初の……父さんも、そう。」

 覚悟を決めたが決定的な一言を口にする事は憚られる。様子を見る言葉になってしまったが、それでも真理は何かを感じ取ったらしい。規則的に背中を撫でていた手を止めて、眼を見開いた。
 初めて、恐怖の記憶を人に話すため一般的な反応はよく判らない。けれど真理は出来るだけ感情を抑えて、藍の話を聞こうとしている印象を受ける。

「半年前……訳判んないまま、だったけど、母さんに見付かった時俺が誘ったって、云った。」

 今でも鮮明に思い出す。空気も生々しい匂いも、痛みも。
 アイしてる。少し前まで不自然な笑顔で繰り返していた男が、女を視界に入れたら青ざめて、目の前に人差し指を突き出された。

『俺じゃない、こいつが無理矢理。』

 何を云っているのか、幼い心には理解不能だった。

「母さんは、俺を殴った……必死に、可哀想なくらい、泣きながら。」

 もう腫れていない頬を擦って、藍は力なく笑う。しかし、その表情は泣きそうに歪んだだけだった。

「母さんはそれから可笑しくなった。当たり前だよね、旦那と息子が有り得ねぇって……」


『なんで! どうしてなの!? 可笑しいわよ!』


 鼓膜にへばりついた声が、奥深くで反響する。


『お前のせいだ!』


 アイしてると。聞き慣れた声が憎悪を剥き出しにして、襲い掛かった。


『生まなければ良かった……』


「俺が、壊したんじゃない……」

 泣かないで、泣かないでよ。母さん。俺じゃないのに。
 母の止めを刺す言葉が残響しながら脳を巡り続ける。眼を閉じていないと涙が溢れてしまいそうだった。
 必死に目許に力を込めているとそこに、自分のものではない指先が触れる。何度も、そっと。丸で涙を拭うような動きで。真理の眼には涙が、見えているのだろうか。

「ぅ……ぅぁあ……っ!」

 堪らずに藍は真理の胸に顔を押し付けて大声を上げて泣いた。
 辛かった。哀しかった。怖かった。痛かった。今まで堪えていたすべての感情が、堰を切ったように溢れ出して、涙に姿を変えて吐き出されて行く。
 母だけではない。父に襲われたその瞬間から藍の心は壊れ始めていた。
アイしている。偽りの言葉は呪詛の様に繰り返されて。それが当たり前だと思う事だけが、幼い心が修復不可能にならずに済む唯一の方法だった。
 当たり前に与えられるものではない。傷付ける事しか出来ない歪んだ独り善がりのアイを、少しだけ信じていたかった。

「本当は、愛されてないって……判ってた。誰にも、母さんにも……!」

 ぎゅっと真理のシャツを握って。藍は血を吐くような思いで哀しみを連ねる。力が籠り過ぎて白くなった指先が痛々しい。
 真理はそっと、刺激をしないように藍の腰に両手を回して組んだ。丸で、見えない敵から藍を守るように、そっと。

「でも抱かれてる時だけはみんな、父さんだって優しかった。あんな事されないと、愛されてると思い込めなかった。」

 最初に与えられた偽りのアイが、確実に藍の心を支配している。これが当たり前の、人間関係だと。行為を重ねれば重ねるほど、痛みしか感じなかった行為は次第にその意味を歪めた。
 快楽に溺れて、現実を忘れる。重ねた肌の温度が、現実に連れ戻す。戻れない家族の温度と重なって、泣きたくなる時もあった。
 でも、身体だけは別だった。どうしようもない淋しさを忘れたくて、また繰り返す。藍1人だけではどうにも出来ないところまで精神状態は悪化していた。

「他に何を信じれば……優しくされてるって思えるか、判らないよ……何も、判らない……。」
「……藍くん。」

 ずっと黙って話を聞いていた真理が藍の名前を呼んだ。顔を上げた藍の涙に溺れた瞳は雄弁に語る、愛されたいと。

「藍くん……人って不思議な生き物だよ。嫌だと思った事はずるずる引き摺って、嬉しいって思った事は直ぐに忘れてしまうんだ。」

 真理の言葉に藍の瞳が揺らぐ。責められている気がして不安に表情を歪ませると、真理は首を振った。

「違う、責めてるんじゃないんだ。ただ思い出して欲しいんだ、嬉しかった事を。その嬉しいを与えてくれた人たちを。」
「嬉しかった、こと……、」

 諭す言葉に藍は眼を伏せる。思い出したのは、家族が壊れる前の、永遠に続くと思っていた日常。
 藍は漸く出来た子供で、妊娠が判った時からずっと、お腹の中に向かって2人で話し掛けていたのだと。耳にたこが出来るくらい聞かせられた事。
 生まれてから毎日写真を撮って、着せ替え人形みたいだったとアルバムを見せながら笑っていた母の笑顔。
 日曜日は接待に行かず、親ばかだと同僚に笑われるくらい自分を連れ回して遊んでくれた父の笑顔。
 まだまだ数え切れない、嬉しいが藍の中に残っている。
 大好きだよと、抱き締めてくれた腕の温かさ。
 腰に回されていた真理の腕が身体に触れて、力を感じた。ほんのりと気持ちの奥底、冷えきった部分が温まって来る。
 その温度はあの頃の、幸せな日々に感じていたものと良く似ていて。藍は更に涙を零した。

「今はまだ難しいかもしれないけど、家族に戻れる日が来るよ」

 自分で否定し続けた夢を、真理に肯定されて藍は何度も頷く。
 今感じている感情が愛なのか、藍にはまだ理解が出来ない。
 しかし、こんな風に温かなものだったら良いなと。
 藍はゆっくりと眼を伏せて、真理の背中に腕を回して抱き着いた。