お隣さん。 (少年Aの驚愕/ここには美人しか住めないの?)

 狭い空間に、気まずい雰囲気が充満している。
 それは地上に着いた事を知らせる電子音と共に、扉が開くまで続いた。
 真理に促されて先に脱出した藍は、エレベーターの到着を待っていたと思われる女性を視界に入れて、また更に息苦しさを感じる。
 女性の表情はとても虚ろなものにも関わらず、不思議と存在感があった。
 容姿に至ってもこんなに綺麗な女性はテレビでも見た事がない。雰囲気に圧倒されて俗な例えしか出来ないほどに、その人は美しかった。
 しかし総合的に見て人間らしくない。ずっと不躾な視線を送っているにも関わらず、彼女の眼はどこか遠くを見詰めたままだからだ。

「朝香さん、おはようございます。」

 真理の一言で初めて、朝香と呼ばれた女性は声の主を視界に入れ、微笑みを形作る。

「おはようございます、佐野さん。」

 朝香が発した声は見た目にそぐわず少女めいた、子供が好む綿菓子が溶ける瞬間を思わせる、儚く甘い声だった。

「夜勤明けですか? いつもお疲れ様です。」

 藍を下ろした時のまま扉を押さえている真理を見た朝香は、会釈をしてエレベーターに乗るためにゆったりと歩き出す。ふっと、空気の揺れに乗って甘い香りが漂った。

「いつもありがとうございます。行ってらっしゃい。」

 朝香に笑顔を返して真理が手を離すと扉が閉まり、エレベーターは上昇して行く。

「……知り合いの人?」

 朝から凄い人を見たと云う昂揚感と、先程までの気まずい空気を打破したくて。藍は興味本位で真理に訊ねる。

「ん、お隣さんだよ。」

 藍の質問に頷いて答えた真理は腕時計に視線を落とした。

「さて、ちょっと急がないとね。」

 腕時計を指差して急がなければならない事を示されてしまえば、それ以上会話を続ける事は出来ない。急ぎ足の真理を追う形で、藍は学校までの道のりを急いだ。
 その努力の甲斐あって。生徒たちで混雑している登校風景に、藍も合流する事が出来た。
 しかし、足取りを緩めた真理の隣を歩けたと思えば、もう学校に着いてしまう。

「じゃあ、学校が終わったら迎えに来るね。」
「……うん。」

 校門の前で立ち止まった真理はまだぎこちない笑顔を浮かべて、藍にはっきりと告げた。
 今まで2日続けて同じ人間の家に泊まった事がない。でも今日も真理と過ごしたいと思う。

「……行ってらっしゃい。」

 今度は自分の学校へ向けて歩き出した真理の背中に、藍は無意識に呟いた。
 届かないと思っていたのに真理は足を止めて振り返り、微笑んだ。その笑顔に、また藍の胸は高鳴る。キスをされた訳でも、触れられた訳でもないのに。
 安定しない不思議な想いを抱えながら暫く真理の背中を見送り、見えなくなったところで藍も校舎へ向かい歩き出した。