結局、満足に眠る事が出来なかった。意識が落ちた瞬間に、あの青年の眼に射竦められて覚醒する。そんな事を繰り返しているうちに夜は明けた。
宿主は昼から活動する人種。部屋を出る時は玄関脇に置いてある鍵を借りて施錠し、それを郵便受けに入れておくのが決まりだった。
今日は遅刻する事は無さそうだと、同じ制服に身を包んだ少年少女たちとバスに揺られる。藍は抑え切れない欠伸を零した。
学校前のバス停に到着すると一気に車内の人口密度が下がり、1番最後に降りた藍は新鮮な空気を肺に取り込む。
それから校門までの僅かな距離を歩き出した彼の前に、眼を疑いたくなる光景があった。
「おはよう。」
眩しい朝陽の中で外壁に背を預けた青年に爽やかな挨拶をされる。しかし、明け方に泡沫で見た夢に脅かされた記憶が先行して、藍は言葉を無くした。
「何の用ですか」
恐怖に震える唇を何とか動かして吐き出せたのは挨拶ではなく、青年がここに居る理由を訊ねるものだ。
青年は藍が挨拶を返さない事を突っ込まず、緩慢な足取りで藍に近付く。そして強引と思わせない手つきで腕を取り、掌を上にさせてそこに千円札を乗せた。あの、炭酸水の染みが眼につく。
「僕から誘ったんだからこれは受け取れないよ。」
藍が染みに気を取られているうちに腕は解放され、変な緊張感も解かれた。
「たったこれだけのためにこんな時間にここに? あなた学生でしょ? 学校は?」
昨日から不思議で仕方がなかった疑問が一気に口を吐いた。確かにどこかで見た事がある制服。しかし、青年が答えをくれる事はない。
「僕の事は気にしなくていいよ。それにあなたなんて他人行儀だね。僕の事は真理(まこと)で良いよ。」
「いえ、他人ですから。それに昨日今日会ったばかりの人を下の名前で呼びたくありません」
与えられたのは不快感だけだった。藍は真理から目を逸らしてきっぱりと云い放つ。
しかし、次の一言には衝撃が走った。思わず掌に乗せたままだった千円札を落とすくらいに。
「冷たいなぁ、藍くん。他人ってほど浅い付き合いじゃないでしょ。」
「っ……!? どうして俺の名前……、」
落とした千円札を拾うために屈んで弱々しく口にした。下を向いて零した小さな呟きにも関わらず真理は聞き取れたのか少し笑みを曇らせる。
「あの脂ぎった男が呼んでいたから?」
その一言で真理の表情が変わった理由を理解した。藍も嫌な事を思い出したと立ち眩みに似た不快感を味わいながらゆっくりと立ち上がる。
「と、そろそろ行かなきゃ。」
腕時計に視線を落として真理は云った。この時間で間に合うと云う事は近くの学校に通っているのだろうか。
「じゃ、一応僕は佐野真理だから。またね、藍くん。」
またって。そう云い返す間もなく真理はさっさと行ってしまう。何だか朝から疲れてしまった。また落とす前にと財布に千円札を戻して学校に入る。
今日は遅刻せずに済んだと思いながらもあの染みが脳裡をちらついて、離れなかった。
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