眼を開くと、男にしておくのが勿体ない顔が視界を埋め尽くした。
驚きから微睡んでいた脳が一気に覚醒し、藍の呼吸は止まる。
なぜ一緒に寝ているのか。その理由は不自然に指先が痺れている事で、直ぐに判明した。
一昨日以上に泣き明かしたにも関わらず、目蓋の重みを感じない。不思議に思っていると僅かに湿ったタオルが傍に落ちていて、真理の優しさに気付いた。
無防備に眠っている彼の寝顔に、胸が締め付けられる感覚を覚える。
ぴた、と頬に触れてみると温かい。それなのに長い睫毛が目許に影を落とす造作は、人形のように綺麗だった。
「ふふ……。」
ずっとこの寝顔を見詰めて、ささやかな幸せに浸っていたい。しかし真理も自分も学校に行かなくてはならない。
真理と同じ学園に行きたい。近いからと適当な理由で選んだ事を忘れて、強く願う。
そのためにはこれ以上内心を悪くする訳にはいかないと。藍は今までの怠惰な生活を改めようとしていた。
しかし真理が起きる気配は感じられない。彼が寝ていると云う事はまだ時間に余裕があるのだろう。
それでも1つ。彼への孝行を閃いた藍は、守るように回されていた腕を解いて、ベッドを抜け出した。
その足でリビングへ向かう。ソファの上に置いてあった鞄から制服を取り出して、着替えた。
そのあと鞄の底で光っていた携帯電話を見る。画面の時刻は6時30分。まだ真理は寝ている時間らしいと小さな発見に笑った。
時刻と一緒に着信とメールありの文字を見つけたが、開封する事なくぱちんと折り畳んで戻す。
そして振り返り、キッチンへ足を向けた。冷蔵庫を開けて、昨日食べさせてもらった朝食に入っていた材料を取り出す。
それから危なっかしい手付きで野菜を洗い、包丁がなくても出来る作業を進めていると、廊下から真理が顔を出した。
「おはよう藍くん……早いね。」
まだ眠そうに欠伸をしながら歩いて来た真理は、藍を見てぴたっと動きを止める。
「藍くん……それは……、」
真理の視線はサラダボール向けられていた。そこには2口サイズのレタス山がある。他のものが入らないほど千切ってしまった事に、藍は気付いていなかった。
「ど、どうせ佐野さんみたいに上手く作れないよ!」
沈黙が煩くて藍は声を張り上げる。それに対して、真理は堪え切れないと云った様子で笑い声を上げた。
「あはははははっ、いや……姫が作ってくれるものなら何でも喜んで食べますよ。」
「姫なんて呼ぶなー!」
そう叫んだ藍の手中で、無惨に卵が割れる。
一悶着して出来上がった朝食。その内容は焼き加減が足りないトースト。真っ黒になったスクランブルエッグか卵焼きなのか、判別が難しいもの(もれなく殻入り)。手で千切ったレタスの山(やはりあれ以上は何も盛れなかった)。
藍は不安げに真理を見る。手伝いの申し出を意地で断ってしまったが、包丁すら握った事のない藍が、まともに料理を作れるはずがなかった。
「頑張ったね、藍くん。じゃあ戴きます。」
嬉しそうな真理の表情に、釣られて藍も笑って戴きますと云って、謎の卵料理を口に運んだ。
「……美味しくない。」
ところが想像以上の出来の悪さに、藍は眼に見えて落ち込む。先の真理の爆弾発言により砕けた殻は細かく、すべてを取り除き切れなかった。
「そんな事ないよ。」
器用に殻をフォークで除けて、口に運びながら真理は藍の努力を労う。そして藍が好きな笑顔を浮かべた。
「料理は気持ちが大事だから。藍君が僕のために作ってくれたってだけで美味しいよ。」
尤もな事のように云われては反論が出来ない。しかしその言葉に偽りはないようで、にこにこしながら千切ったレタスを、美味しそうに食べている。
「そうだ、晩ご飯は一緒に作ろうか。」
名案だと云うように、真理は藍を見て提案した。
「……良いの?」
素直に真理の手を借りずこんな朝食を作り出したにも関わらず、責めるどころか優しい言葉に恐る恐る聞き返す。
「帰りに買い物しないとね。……今日はちゃんと待っていてね。」
「……うん。」
その態度からはこれからも藍を支えて行くと云う、強い意志が感じられた。それに対して藍は少し照れ臭そうに年相応の、心からの笑顔を浮かべて頷く。
たった1人、それでも真摯に深く。
愛せる人が、愛してくれる人がいるのならば。
愛が、アイの傷を癒してくれるだろう。壊れた家族を修復してくれるだろう。
初心で、危うい少年を大人にしていくだろう。
孵化した心の再生は、始まった。
おしまい。
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