今朝見掛けた真理のお隣さんらしい女性。一緒にいた藍には無関心だったが、真理に対しては希薄ではあるものの反応を示していた。
ただ単に顔見知りだからかも知れないけれど。それでもあのお隣さんは真理の事が好きなのかとか、あんな綺麗な人に云い寄られたら、真理はどうするのだろうとか。
考えれば考えるほどに迷妄して、藍の気分が段々と沈み込んでいく。
しかし真理は今朝、愛していると云った。そしてその言葉の真摯さに藍は動揺してしまった。
何もしていない、素面の状態ではっきりと眼を見て告げられた告白は、今になって藍に甘くて切ない痺れを与える。
嬉しい。出来る事ならその気持ちを受け入れて、ささやかな幸せに満ちた日々を真理と過ごしたいと思った。
その反面、こんな自分のままで良いのかと、我が身を振り返って溜め息を吐く。
今朝、真理に自分の中に満ちている汚泥を零すのは止めよう決めた。それはささやかな幸福を守るために。
しかし、何も明かさないまま関係を続けていく中。何かが切っ掛けで汚れた自分が白日の元に曝された時、真理は変わらずにいてくれるだろうか。
ありあまる幸せに溺れたあとの。それを失う瞬間の恐怖を藍は嫌と云うほど知っている。
それならば、何も持たないままでいたいと思うのは、傷だらけの心を守るための無意識な防衛本能に過ぎない。
それと同時に、あの幸せな生活の継続を望んでいる自分を隠せそうにもなかった。
幼気な願いは揺れ惑い、同じところを何度も辿っては、脆弱な心を無邪気に抉り続ける。
「おい、真名。」
冷え冷えとした声が耳に届くとぷつっと循環が切断された。顔を上げてみるとそこには数学を担当している担任の姿がある。
「聞いていたのか、真名。」
「あ……済みません。」
まったく聞いていなかった。今の時間が最後の授業だったため、完全に気を抜いていた藍には返す言葉がない。
「……後で”指導室”に来い。」
またか、と藍は内心うんざりしてしまう。今まではこんな事を思わなかったのに。
「了解でーす。」
それを気取らせないために明るくおどけて返せば、担任は教壇に戻って行き授業を再開した。
佐野さん、迎えに来るのに。とまた循環が始まってしまいそうになるのを必死に堪える。
もやもやした気持ちをぐじゃぐしゃとノートに書き殴りながら、残りの時間を暗鬱に過ごした。
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