少しずつ呼吸が落ち着き始め、正気を取り戻し始めた藍は凍りついた。
「な……なっ、」
言葉にならない。その原因は今の自分の状態にあった。背中に腕を回して真理の左胸に耳を押し当てている姿は、傍から見て甘えている様にしか見えないだろう。
かあっと頬が熱くなり腕を伸ばして真理と距離を置く。今度は何も身に纏っていない事に気が付いた。
1人で百面相する藍に、真理は籠から彼が用意した寝間着を手繰り寄せて羽織らせる。
「腕、手当てしないとね。痛いでしょう?」
釦を留める真理の指先から腕に視線を移した。そこには既に血は固まっていたが肘から手首の柔らかい部分に掛けて4本の、猫に引っ掻かれた様な傷がある。
「おいで。」
差し出された真理の手を取って立ち上がった。下も穿き終えるとリビングに向かい、日中は座らなかったふかふかのソファに藍は座らせられる。真理は救急箱を手にして藍の隣に座ると手当を始めた。
傷は広範囲だがそんなに深くはなく、包帯を取り出した真理を見て藍は思い切り首を横に振る。
「い、いいよ、大袈裟だって……。」
「心配だから大人しくして。」
藍の言葉に真理は耳を貸さず慣れた手つきでくるくると、ガーゼで覆った傷を包帯で隠して行った。
何だか自分の腕なのに別な人間のように感じられて、藍はまじまじと眺める。それは真理が救急箱を片付けて戻って来るまで続けていたようで、藍は顔を上げると楽しそうに笑っている真理と眼が合った。
「な、何……?」
不安そうに藍は真理を見詰める。先程の洗面室での失態もあって、つい身構えてしまった。
「いや……可愛いなって。」
「……っ、」
予想外な真理の言葉は衝撃的で、藍は紅く染まった顔を隠そうと俯く。だが同じ色に染まった耳までは隠せない。
「じ、じろじろ見んな……」
ずっと注がれ続ける視線に痺れを切らした藍は顔を上げて真理を睨んだ。つもりだったがその瞳は潤んでいて全く迫力がない。
「ごめんね、見ない見ない。」
真理は顔を背けてご丁寧に眼まで伏せる。小作りな輪郭の横顔は思わず怒りを忘れさせるほどに秀麗で、その眼許には長い睫毛が影を落としていた。目蓋に隠されたあの全てを見透かす千里眼は自分をどんな風に映しているのだろう。
そう云えば見られる事は良くあっても、こうしてはっきりと真理の顔を見るのは初めてだった。暴力的だと思っていた真理の造作は正反対の繊細さを持っていて、藍は眼が離せない。
視線を少し下に移動すればそこには薄い唇がある。一方的に、キスはした。あの真理の唇はどんなキスをするのだろう。つい、じっと見詰めてしまう。
「……どうかしたかな?」
(……痴女か、俺。)
藍は真理に声を掛けられて初めて自分の行動に気付いた。ふかふかのソファから床に足を付けて真理の前に立ち、指先で唇を撫でている。
「……キス、」
照れ隠しを含んだ口調はぶっきらぼうだが、その声色はほんのりと甘い。真理は僅かに眼を見開いて驚いた表情を浮かべたあと、少し笑って藍の額に唇を触れさせた。それに対して藍は不満げに真理を見上げる。
「……藍くんが、僕を好きになった時にね。」
その言葉に藍は疑問を抱いた。
「……佐野さんは俺をアイしてるの?」
「……愛してる、かな。」
そう答えた真理はいつもと変わらない笑顔を浮かべていて、それには下心も何も見えない。
「じゃあいいよ、しよ。アイしてるならしてよ。」
藍は真理のシャツの袖を引き、子供が欲しいものを強請ってごねるような仕草で誘う。日中とは違い、年相応とは云い難いが、まだこちらの方が微笑ましく見られるものだった。
「良くないよ。藍くんの気持ちが伴わないなら何の意味も無いんだ。」
何故、どうして。真理だけは他の人間と違い過ぎて藍は困る。キスをしてと云えば子供同士がするような軽いものを真理は与えた。その先だって、しても良いと思っているのに、どうしてだろう。
「訳判んないしっ、佐野さんだって気持ちよければ良いじゃん!」
困惑は段々と苛立ちへと姿を変え始めた。どうしてこんなに真理としたいと自分は思っているのか。単純にそんな欲求が沸き起こっているだけなのか。それとも簡単に手中に落ちない真理を落としたい意地なのか。
真理の考えている事が判らない。藍が今まで見て来た人間たちのどの属性にも、真理は当て嵌まらないから。
「藍くん……もう遅いから寝よう? 明日も学校だ。」
宥めるように真理は頭を撫でて来るが、今欲しいのはそんな感触ではない。
この綺麗で、優しい指先が好き。好きだけれど、触れてもらえないのなら絵に描いた餅と変わらない。
「あっそう、判ったよ。どうせ佐野さんから見れば俺は汚いからね。アイしてるなんて嘘なんだ。」
「藍くん……良い子だから、」
藍の感情が昂るのに反比例して真理の態度は冷静になるようだ。再び頭部に向けて伸ばされた掌を藍は衝動的に叩き落とす。その勢いのまま、
「っ……俺が良い子? 心にも無い事云うなよっ何も知らないくせに!」
怒りか哀しみか、その両方かで震える身体を両腕で抱く。歯が鳴らないように噛み締めながら、藍は真理を見上げた。
何よりも、アイしていると云ってくれたのが嘘だと感じてしまう、真理のそっけない態度が辛い。
「……そうだね。確かに僕は藍くんの名前と学校くらいしか知らない。でも……愛の無いセックスをして藍くんは幸せなのかな?」
アイの世界の核心を突く言葉に藍は眼を見開いた。訳も判らず涙が溢れそうになって来て、力なくフローリングに視線を落とす。
「……ごめん、寝ようか。僕も頭を冷やした方が良さそうだ。」
涙を必死に堪えている藍の耳に落ちた真理の声の方が、親に叱られて落ち込んだ子供のような淋しさを孕んでいた。急速に怒りに沸いていた心が冷たく凍えていく。
それでいて躊躇いがちに髪に触れた真理の指先はいつも以上に優しくて、ぽつり、と一雫。
「藍くんの部屋は廊下に出て一番手前だから……ゆっくり休んで。」
そう云い残し、真理は廊下の突き当たりにある部屋に入って行った。かちゃっと静かに扉が閉まった音が耳に届いたと同時にぽつり、ぽつりと先の一雫を追って藍の瞳から雨の様に止め処なく涙が溢れ出す。
「知って、居たよ……。」
愛が無い、なんて。気が付かない訳がない。そんな事は知っているけれど、一番辛かったのは同情ですら真理が触れてくれなかった事、だろうか。
乱暴にシャツの袖で涙を拭う。壁にあるスイッチを適当に押してリビングの電気を消し、宛てがわれた部屋に入った。
リビングと同様に綺麗に片付けられたこの部屋はとても淋しい。皺1つないベッドのシーツに身体を沈めてみても哀しみは募るばかりだった。
タオルケットを被って丸まってみても冷たく、全身に血液が行き渡っていないかのように、身体は温まらない。
まだまだ残暑が厳しい時分なのに、凍えてしまいそうだった。
温かい、都合の良い場所が出来たと思った。それなのにこうして苦しくなる事が多いのは何故だろう。
急激な感情の変化に着いて行けない。淋しさと理解不能の感情を処理し切れないまま、藍は泣き疲れて眠りに就いた。
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