ヤな奴。 (少年Aの黄昏/公衆ではお静かに)

 学校帰りの少年少女達で賑わう店内。飲み物を注文して、窓際のカウンター席に座る。得体の知れない暴力青年の隣で、藍は借りて来た猫の様に大人しくしていた。
 店内の騒がしい空気さえ、どこか遠い世界に感じる。
 そっと、藍は横目で隣の青年を窺った。
 この店に入った時、否、初めて目にした時からずっと変わらない笑顔を浮かべている。
 貼り付けたようなその表情は、普通に出会ったなら好感を持てたのかも知れないが、あの撃退の場面を見た後ではどうしても不信感しか沸かない。
 それにしても一応助けてもらったのだからお礼を云うべきだろうと、機会を探ってみるも中々切り出せない。
 氷が溶け始めて上層が透明になって来た炭酸水を掻き混ぜて、この居心地の悪い空気から逃れようと試みた。
 すると青年が唐突に口を開く。

「その制服を着てるって事は、あの進学校の生徒だよね。」

 青年の言葉は自分の素性を特定しようとするもので。ストローを弄ぶのを止めた藍は、初めて正面から青年の顔を見る。
 確かに藍が通う学校はこの辺りでは有名だった。これは隠しようもない事実なので素直に頷く。

「別に君の性癖を兎や角云うつもりはないけど相手は選んだ方が良いよ。2回りは確実に上でしょう?」

 ここまで連れて来て説教かと、藍は眼に見えて表情を歪めた。それにも関わらず青年の笑顔に、穏やかな声色はまだ続く。

「まあ……君は複数相手がいるみたいだから、さっきのはただ絡まれていただけかも知れないけど。」
「……っ!」

 なぜ知っているのか。ただでさえ恐怖の対象であった眼の前の青年が、少しずつ罪を裁く閻魔の姿に変わって行く錯覚を、藍は見た。
 左胸で暴れ回る心臓が苦しくて言葉を発する事は疎か、否定のために頭を振る事さえ出来ない。

「どうして、そんな危険な事をしているの?」

 不意に、青年の笑顔が消え真面目な表情に変わる。青年の瞳は寸分狂わず藍を射抜いた。
 丸で、すべてを見透かす千里眼のような瞳で。

「あ……あんたには、関係無い。」

 漸く口に出来た言葉は心臓の震えを纏っていて、力がなかった。
 怖い。すべてを暴かれてしまいそうな恐ろしさに視線を逸らす。

「こっちからすると関係なくないんだよ。お金に困っている訳ではないよね?」

 青年の言葉に心臓が耐え切れなかった。衝動のまま立ち上がると座っていた椅子が膝裏に当たって倒れ、その音に周りの視線が集まる。
 だが、青年を除くその他大勢の視線など、藍はどうでも良かった。
 急に現れて、助けて、自分の事を判っている口振りでつらつらと話し出した青年。
 しかし、すべて判る訳がない、こんな感情。帰れない理由だって、聞いたら青年は軽蔑するのだろう。
 藍の頭は真っ白になっていた。聞いてどうすると云うのだろう、好奇心なのか、お節介なのか、偽善なのか。

「……失礼します。」

 財布から千円札を出してテーブルの上に置く。混乱する最中、唯一出来た回避手段。
 先ほど立ち上がった衝撃で炭酸水が零れたのか、今置いた千円札にも茶色の染みが付いた。
 その染みが、自分の心の裡を表しているようで見ていられずに、踵を返す。

「あ……まだ話は……、」

 青年の言葉ははっきり耳に届いていたが、藍は聞こえない振りをして店を飛び出した。
 後ろを振り返り、追い掛けて来ていない事を確認して、酸素を求めて暴れる心臓のために深呼吸をする。
 あんな人間は、初めてだった。何でも知っているように語り、それでいて相手に答えを云わせようとする。
 本当に、ヤな奴だ。どこかで見た事がある制服だったが、きっともう会う事はない。
忘れてしまえ。そう念じて、気分を変えるために携帯電話を見てみるとメールが届いていた。
 先ほど連絡をした相手からで、その内容は家にいるからいつでも来て良いと云うもので藍は安心する。
 早速相手の家を目指して歩き出した。頬を撫でる風が、いつもより鋭利に自分を責めている。
 そんな迷妄も、記憶と共にどこかへ捨ててしまえば良いのだ。