正義のパンダ。 (少年Aの誤算/国家の犬なんて云わせない!)

「いない……」

 急いで校門まで来たが真理の姿はまだなかった。携帯電話を開いて時刻を確認するも、昨日何時頃ここに来たのかを覚えていないので比較のしようがない。
 求めた姿が見当たらない事に藍はしゅんと意気を揺らめかせた。それでも逸る気持ちを抑える事は出来ず、今朝真理が歩いて行った方向へ歩き出す。
 夏休み前に見学に行った事もあり道は何となくだが覚えていた。ここからさほど遠くはないし、迷いはしないだろう。
 今までのお返しに、真理を迎えに行って驚かせてやろうと、藍の表情は綻んでいた。
 だが、学校を離れて直ぐのところで背後から何者かに腕を掴まれた。既視感を覚える展開に、藍は内心を隠そうとせず盛大な溜め息を吐く。

「アイ、やっと捕まえたよ。」

 この声を聞くのは、あの奇妙な呻き声が最後だと思っていた。

「またあんたかよ。」

 真理に殴られてもまだ懲りていなかったのだろうか。背中を見せておきたくなかった藍は嫌々振り返る。
 神谷の顔はひどい有様だった。ただでさえ贅肉で弛んでいた頬は腫れ上がり、昔話にでも出て来そうだ。
 その状態を目の当たりにして、真理の怒りの度合いを知る。あんなに優しい人が早々人を殴る事などないだろう、と贔屓眼に見ている事に気付いて内心失笑した。
 一向に解放されない手首が神谷の手汗で湿って来て気持ちが悪い。大袈裟な包帯を巻いているにも関わらず、神谷は力を強めて来る。

「放せよ。」

 藍は振り解こうと腕に力を込めた。しかし前回と変わらず自分が痛い思いをするだけで、無駄な抵抗に終わる。

「折角捕まえたのに放す訳ないだろう。さあ、あの野蛮な男が来る前に。」

 野蛮な男とは真理の事だろうか。自分に良くしてくれている真理をそう評価されるのが不服で、藍は神谷を睨みつける。

「昨日はあの男のところにいただろう。今日は私のところへ来るんだ。」

 神谷の言葉に違和感を感じた。藍は状況を整理する。
 一昨日、この男は真理に殴られて伸びた。そして、昨日は?
 学校でもマンションの近くでも、あの目立つ高級外車は見掛けなかったように思う。
 そもそもなぜ、神谷が真理のマンションを知っているのだろう。
 すべての疑問が1つに繋がりかけた時、神谷は残酷な一言を口にした。

「ずっと待っていたんだ。藍が1人になる時を。」

 この神谷の言葉で藍の脳裡を過ったまさかが、肯定される。
 考えてみれば真理はずっと、片時も離れず藍の傍にいた。学校から帰る時から登校する時まで、ずっと。
 藍が気付いていなかっただけで、神谷は懲りずに藍を狙っていた。
 それに気付いた真理はずっと神谷から守っていてくれたのだ。そんな事を露程にも知らず勝手に真理の学校へ行こうとして、あっさり捕まってしまったのが現状。
 真理の努力を無駄にしてしまうと、藍は無性に泣きたくなって来た。昨日も、散々泣いたと云うのに。

「ほら、今夜もたくさんアイしてあげるよ。」

 精神的に弱って力が抜けた藍は、無抵抗のまま手を引かれる。しかし、嫌な記憶しかない高級外車に押し込まれそうになった時、神谷の言動に嫌悪感が溢れた。
 掴まれた腕をめちゃくちゃに振り回して暴れ、叫ぶ。

「あんたのなんか……愛じゃない!」
「大人しくしろ!」

 ぱん、と渇いた音が響いた。
 反抗的な藍に痺れを切らした神谷は、自由な方の手で藍の頬に掌を打ち付けた。更に藍の叫びに被る勢いで怒鳴りつける。

「……ぁ、あ……ごめん、なさい……、」

 嫌な記憶が、藍の脳裡で一気に展開していった。顔面蒼白になり、全身から力が抜け落ちて、コンクリートにぺたんと座り込む。

「そう、それでいいんだ。」

 神谷の満足げな声は、既に藍の耳には届かない。細胞は現在を認知する事を破棄して、総動員で脆弱な藍の神経を苛み続けた。

「さて……ぐあぁっ!」

 大人しくなった藍を神谷は車に乗せようとする。だが、神谷は地面に沈み込んだ。それは彼自身の過失か、第三者の介入によるものとしか考えられない。

「藍くん!」

 藍を傷付けない声で記憶と現在が、交差した。
 辿々しく声が聞こえた方に顔を向けてみる。するとそこには神谷に馬乗りになって、押え付けている真理がいた。

「兄さん? 僕、現行犯だから直ぐに来て! 場所? GPSで判らないの!?」

 よく見ると真理は肩で携帯電話を挟んでいる。口早に話す真理の下では関節か何かを痛め付けられているのか。それとも現行犯と云う言葉に抵抗しているのか、神谷が呻いていた。
 まったく現実感がない。それでも真理が神谷を押え付けながら藍を見詰めている。その眼が大丈夫だと云ってくれている気がして、藍は辛うじて意識を保っていた。



 真理が電話をした相手なのか、それとも誰かが通報したのか。そう時間が経たないうちにサイレンを鳴らしたパトカーが1台走って来て、高級外車の前に停車する。
 先ほどまで誰もいなかった通りは、パトカーが連れて来たのか野次馬が集まり出して、辺りは騒然としていた。
 野次馬の中から現れたスーツの男は、神谷を押え付けている真理を見る。2人は直ぐに視線を通わせて、頷き合った。
 真理と意思の疎通を図れたらしいスーツの男は、微塵の迷いもない手付きで神谷に手錠を填める。
 神谷が拘束されると真理は直ぐに立ち上がった。その勢いのまま力が抜けて立ち上がれない藍の元に走る。

「藍くん……駄目じゃない、ちゃんと待ってなきゃ。」
「佐野、さん……」

 抱き締められて、声を聞いて。全細胞が真理を感じるために活動する。先ほどまでの浮遊感が嘘のように今が現実だと、はっきり認識した。
 薄ら痣になった神谷に掴まれた手首。叩かれた頬の痛み。傍に居る、真理の体温。

「佐野さ、佐野さん……っ!」

 抑える事など出来ない。安堵や恐怖。すべてがごちゃ混ぜになり、涙に変わって溢れ出す。
 昨日のように真理の左胸に耳を押し当てて、しばらく声を上げて泣き続けた。