「真理。」
真横から真理を呼ぶ声が聞こえて、藍は無意識に緊張した。それを感じたのか真理は背中を撫でて宥める。そしてすっと、小さく息を吸う音が藍の耳に届いた。
「判ってくれたでしょう、兄さん。藍くんは窃盗なんかしていない。」
先ほどからスーツの男を真理は兄さん、と呼んでいる。少し前まで一緒に暮らしていたと云う人が手錠をかけた光景を、藍は鮮明に思い出した。
それから、窃盗と云う穏やかではない言葉と自分の関係。
「判った……捜査は振り出しに戻るな。」
来い、とスーツの男が神谷を連れてパトカーに戻る後ろ姿を、藍は顔を上げて横目に見る。そして一緒に駆けつけた警官が真理に会釈をして行くところも。
一体、何が起きている。否、考えるまでもないかも知れない。
「藍くん、怖かったでしょう……直ぐに来れなくてごめんね。」
視線を真理に向けると本当に悔しそうな表情の裡に、本当に心配して疲弊した色を含んでいた。しかし、これも嘘なのだろう。
両腕を突っぱねて藍は真理と距離を取ろうと試みる。そして不思議そうに頭部に伸ばされた真理の手を振り払った。
「……藍くん?」
真理の払われた手も、藍の払った手もそのまま動かず、2人の間で時が止まる。パトカーが去った通りはまた、静寂に支配された。
「何だよ……何だか知らないけど……捜査のために俺に近付いたのかよ……。」
沈黙を破った藍の震えた声による問いに、真理は困ったように微笑んだまま答えない。
「まだ、解決してないんだろ……次、行けよっ早く!」
無言の肯定が藍を苦しめる。全てが捜査のための嘘だったなんて、信じたくなかった。
「僕の事件は解決したから行かないよ。」
「意味っわかんねぇ……。」
もう、真理の前で泣きたくなかったと云うのに、ぽたっとコンクリートに涙が落ちて、滲む。
また落ちてしまいそうな涙を、真理は目許に唇を寄せて吸い取った。
そのまま藍が逃げようと思えば逃げられる速度で唇を近付け、そっと口付ける。
拒む事が出来たはずなのに、藍には出来なかった。
「強がってる時、藍くんは口調が荒くなるよね。ごめん……もう泣かせたくなかったのに。」
「さ、のさん……?」
辛そうに歪められた眉。そんな真理の表情に釣られて藍も悲痛な表情を浮かべた。そして真理がよく自分にするように頭に掌を乗せて撫で始める。
「藍くん……。」
「説明して。そしたら、許してあげなくも、ない。」
そっけなく藍は発した。その顔は泣いたり怒りに興奮した以外の要素で、更に赤く染まっている。そんな藍を見た真理は少しだけ、笑顔を取り戻した。
本当は、どんな理由だったとしても許してしまうだろう。それに冷静に思い起こしてみれば彼は兄に対して藍は窃盗をしていない、と弁護していた。
「……判った。帰ろう、藍くん。」
重い口を開いて先に立ち上がった真理の手を借りて、藍も立ち上がる。けれど、まだ恐怖心から足が震えた。
真理に支えられながら、ゆっくりと。覚束ない足取りだが確実に2人で歩き出した。
関連