代償行為。

「秘密を教えてあげる。」


 付き合ってそろそろ一ヶ月になる彼女にそう云われて、私は部屋に招かれていた。両親は仕事でいないらしく変な緊張感を抱く。
 その思いを見透かすように彼女は制服を脱ぎ捨てて上半身は下着、下はスカートという扇情的な姿を見せてくれた。けれど、それよりも眼を引くものがある。白い肌に馴染む、それでも存在を主張してくる両腕の白い白い包帯。二の腕までを覆うそれはどう考えても傷を隠すためにしているようで私は息を飲んだ。
 彼女はゆっくりと見える動きで片腕の包帯を外していく。そこは赤黒い線に埋め尽くされていて本来の美しく白い肌は見る影もなかった。片方の腕も同じように包帯が取り払われても見える光景は変わらない、醜い赤色に支配されている。
 隙間なく刻まれた傷痕はただ見ていて痛々しい。それにも関わらず彼女は剃刀を引き出しから取り出して何の躊躇もなく手首に宛てがって勢いよく引く。ぽたぽたと床に血液が落ちる音が静かな室内では余計に大きな音として耳に届いた。
 これが、彼女の秘密。クラス委員も務めていて教師たちからはもちろんクラスメイトからも信頼が厚い彼女に自傷癖があるなど思いも寄らないことだった。
 「……どう? 引いた?」と彼女がこの部屋に来て初めて言葉を口にする。その言葉から感情を読み取ることはできなかった。ただ淡々としていていつもの彼女ではない別人と対峙している気分だ。

「それ……痛くないの?」

 かろうじて云えたことは陳腐な問いだった。指先を紙で切るだけで鋭い痛みが走って憂鬱な気持ちになるのに彼女はそれを両腕全体に施している。痛みがないわけがないと云うのに。

「んー、今は痛くないよ。皮膚が硬くなっているからかな。」

 「触ってみる?」と彼女は歩み寄ってきて驚きに硬直して動けなくなっていた私の腕を取って二の腕に触れさせる。そこは確かになめらかな手触りではなく傷痕によって凹凸ができていて、触れたことのある頬と比べると別人の肌のようだった。
 彼女は触れさせたまま、また新たな傷を作っている。近くで見ているとすでにある傷口に阻まれてうまくいかないようで、その傷口を抉るようにまた躊躇なく剃刀を走らせた。少し間を置いて血液は痛々しいそこから溢れ出してきて自分が出血しているわけではないと云うのに貧血を起こしてしまいそうだ。

「ねえ、引いた?」

 口づけができそうなほど顔を寄せて、彼女は問いかけた。その顔は出血しているにもかかわらず高揚感からなのか頬を染めていて魅惑的だ。この異常な状態ではなければ口づけを交わしていただろう。

「ううん……引かないよ。でも止めよう?」
「どうして?」

 すぐに答えが返されて接ぐ句を失う。だが、こんなことをしてはいけない。六体満足で親にもらった身体に傷をつけることなどあってはならないことだと思った。

「自分を傷つけちゃだめだよ……。」
「どうして?」

 そう問いながら彼女はまた手首に剃刀を突き立てる。もっと、もっとと痛みを欲して行われていると思われるそれに胸が締めつけられる感覚を覚えた。

「親が……哀しむよ?」
「あなたは傷ついてくれないの?」
「哀しいよ、つらいよ……だからもうやめて?」

 相も変わらず傷口を抉る剃刀を握る手に自分の手を重ねて止めさせようと試みる。

「つらい……? 私もつらいのよ、切らないと頭がおかしくなりそうなの。」

 抉ることは止めた彼女は自分に投げかけられた言葉の意味がわからないというように無垢な表情で見上げてきた。

「やっぱり引いている? あなたなら理解してくれると思って秘密を明かしたのに。」
「だから引いてないよ、でも自分を傷つけるようなことをしているあなたを見たくないの。」

 しばらく沈黙が続く。ぽたぽたと床に落ちていく彼女の生命。自分で手首を切る想像をしてみる。指先が震えて力が入らなくて躊躇い傷さえ作ることもできないだろう。

「そんなことを云うのなら、あなたが切ってくれるの?」

 私は驚きに眼を見開く。確かに自分で傷つけるようなことはしてほしくないと云った。けれどそれは自傷行為そのものを止めてほしくて云った言葉で、彼女が云うような意味は込めていない。

「自分でやらなければいいのでしょう? それならあなたが切って?」

 甘えるような声色と見上げる瞳に私は否応なしに剃刀を受け取らずにはいられなかった。すでに血液が付着しているそれはその鋭さを失ってはおらず、妖しい光を放っている。

「ねえ、切って……? あなたになら傷つけられてもいいのよ。」

 蛇の誘惑は止まない。これは人としてやってはいけないことだと頭では理解している。しかし甘美な声で歌われる誘いに抗えなかった私は剃刀を握りしめた。
 私の決意を感じ取った彼女は自分では切っていない方の手首を差し出す。すでに傷だらけのそこに刃を宛てがった。
 彼女が先ほどしたように力を込めて一気に剃刀を引く。それでも恐怖心は拭えずにためらい傷のような薄い線を刻むことしかできなかった。
 「もっと、痛くないから思いきりやって。」と云われてもう一度彼女の手首に剃刀を密着させる。
 躊躇をしてはいけない。今度こそ彼女に痛みを与えてやらなくてはならないと謎の使命感がわき上がってきていた。
 震える指先に力を込めてゆっくりと刃を彼女の手首に沈めていくと食材の肉を切る時と同じような感覚が襲ってくる。けれど彼女は食べものではない。ではいったい何のために切ろうとしているのか訳がわからなくなってきた。
 剃刀が沈んだ部分から血液が溢れてくる。本当に痛くないのだろうかと彼女の顔を見ると恍惚とした、幸せそうな表情で自分の手首を眺めていた。
 彼女が幸せを感じているのならばそれでいいのかも知れない。私はそのまま剃刀を動かして端まで動かす。自分がつけた真新しい傷痕は他の彼女がつけた古傷と比べると真新しいためか鮮明な赤色が美しくて、思わず見蕩れてしまうほどだった。

「ありがとう。」

 自分の手首がとても大切なもののように眼前に掲げて、ぺろりと血液の色よりは薄い舌で傷口に舌を這わせる。血液をまとった彼女の舌は眼に痛いほど赤く、赤く。眼が離せなかった。
 不意に彼女が顔を近づけてくる。その意図を悟って眼を伏せてその時を待った。やわらかな唇の感触。そして甘い、血液の味がする。
 もうきっと、引き返すことなどできない。この口づけの味を知ってしまえば、他のものでは代用が効かないだろう。
 蛇にそそのかされてしまった時点で、こうなることは決まっていたに違いない。口づけが終わると私は彼女の傷口に唇を触れさせる。
 今まで血液が甘いものだと思っていなかった。けれど彼女の血液はひどくひどく、甘い。
 そうして再び口づけを交わす。この背徳的な行為に眩暈がしてきそうだった。

「ね、だから云ったでしょう? あなたなら理解してくれるって。」

 視線を交えたまま、彼女は私の髪を撫でて妖艶に笑っていた。

イブがかじった林檎の味は、甘美だった。