秘め事。

「申し訳ございません、玲司様……申し訳ございません。」

 そう何度も謝罪の言葉を繰り返しながら、真白は玲司の手首からしたたる血液を夢中で舐め啜っていた。
 玲司は昼間は有能な執事である真白の月明かりで銀色に見える髪の毛を梳いてやりながら、無に近い表情でその様子を眺めている。



 事の始まりは深夜にも関わらず真白が自室を訪ねてきたことだった。この時の真白は血液を求めて自制心が利かないのだ。
 だから玲司は主人に対する非礼を咎めることもせずに黙って部屋へ迎え入れた。机の引き出しからカッターナイフを取り出してベッドに腰掛け左手首を晒すとためらいもなく一本の線を引く。そこにはすでに傷跡がいくつも刻まれており、真白の奇行が初めてではないことを示していた。
 少し間を置いて溢れ出した血液に真白は飛びつく。膝をついて唇をつけるその様はまるで主人へ忠誠を誓っているようにも見えた。しかし今の彼を突き動かしているのは玲司の血液に対する異常なまでの執着心だろう。
 玲司には真白の行動が理解できない。この奇行に関してインターネットで調べることはした。その中で真白は『吸血症』を患っており、その解決策として『ブラッドカード』というものが配布されていることも知ることはできた。だが、真白はレアケースらしく見ず知らずの人間の血液には拒否反応を示したのだ。

「……もっと欲しいか、白。」

 そこそこ力を入れて切ったつもりだったが傷口からの出血は治まっていた。それでも真白は玲司の手首から唇を離さずもっと、とねだるように舌を這わせている。
 玲司は新しく傷を作るために真白から手首を取り上げてもう一度カッターナイフを手首に押しつけた。今度はもっと深く、抉るように切りつけるとすぐに血液は流れ出す。真白は手の甲に伝った一滴をも惜しむように舐め取ってから再び手首に唇を押し当てて、恍惚とした表情で主人の血液を貪っていた。まるで玲司の血液がなければ生きていけないというように。
 傷口に真白の舌が触れるたびに鋭い痛みが走る。けれど何食わぬ顔でその痛みを甘受した。
 在りし日に真白を拾ったのは紛れもなく自分だ。その真白がどんな奇病を患っていようとも面倒を見なければならないのは自分だと思っていた。
 むしろその対象が自分でよかったのかも知れないとさえ思う。この悪癖が誰彼構わず起こってしまうものだとしたら真白を高崎家に置いてやることは難しくなってしまうだろう。
 真白に血液を吸われることにより耳鳴りがして意識がだんだんと薄れてくる中、玲司は思考した。だから、これでいいのだ。真白が自分の血液だけを求めていればそれでいい。そうしていればずっとこの執事だけは自分を裏切ることも、傍を離れることもないだろう。

「玲司様……申し訳ございません……。」

 真白は今にも泣き出しそうなほど震えた声で謝罪の言葉を繰り返した。痛みや貧血でつらいのはこちらの方だと思う。それでもただ黙って頭を撫でてやった。何も気にすることはないのだと。
 ようやく気が済んだ様子の真白は傷口から唇を離して、いつも持ち歩いているのだろうかと思いたくなるほど当たり前のように消毒液と保存袋に入った脱脂綿を取り出した。
 消毒液が傷口にしみて思わず痛みに声を上げそうになったが寸でのところで堪える。そんな反応をしてしまえばこの心優しい執事は胸を痛めてしまうに違いないからだった。
 丁寧に傷口を清めてまたどこにしまっているのか包帯を取り出して左手首に巻きつけていく。傷口を覆い隠してしまうとそれを切り落としてきつすぎず緩すぎない加減で固定して最後に手の甲へ唇を落とした。真白がするいつもの忠誠の証しの口づけだ。
 それからサイドテーブルに放置されていた血液で汚れたカッターナイフを同じように消毒液をしみ込ませた脱脂綿で清めた。刃をしまうとそっと置かれていた場所へ戻し、深々と頭を垂れる。

「お休み前に失礼いたしました、玲司様。非礼をお許しください。」
「ああ。」

 相も変わらず膝をついたまま告げられた謝罪の言葉に答えてやりながら真白の頭部から手を離した。真白に触れるのはこの吸血行為が行われている時だけだと決めていたからだ。

「ゆっくりお休みくださいませ、玲司様。」
「ああ……お前もな。」

 労いの言葉をかけてやりながらゆっくりとベッドに身体を横たえると真白は「ありがとうございます。」と、とても嬉しそうに微笑んでいた。そんな顔を見せられれば釣られて頬が緩んでしまいそうだ。しかし主人としてそんなだらしない顔を見せることはできないと眼を伏せて眠ったふりをした。

「失礼致します。」

 主の睡眠を妨げまいと真白は小さな声で退室の挨拶を述べて静かに扉を閉める。
 ひとりきりになったところで玲司は起き上がって真白が清めたカッターナイフを引き出しに戻して改めて就寝体勢を取った。
 玲司にはもともと自傷癖などない。それでも自分に忠実に仕えてくれる執事のためなら手首を切ることに何らためらいなどなかった。それどころか求められることに昏い喜びを覚えている。まったく自分でもおかしな話だと思った。
 じくじくと痛む左手首をかざして見る。自分の血液くらいで真白のことをつなぎ止めておくことができるのならこんな痛みは何の苦にもならない。
 これは自分も真白に執着しているということなのだろうか。いや、それは少し違った。真白は自分の血液にのみ執着しているのだから。
 これ以上不毛な思考はよしておこう。明日の業務に支障を来しては元も子もない。
 玲司は腕を布団の中に戻してゆっくりと目蓋を下ろした。せめて、睡眠中くらいは気が休まるようにと願いながら。



貴方でなくては、意味がないのです。