時は中世、蝶よ花よとお育ち遊ばれた貴族たちが贅を尽くした生活をしていた頃から、250年ばかり過ぎた現代。
日本を代表する大企業の1人息子ともなれば執事の1人や2人抱えていてもおかしくないのか、おかしいのかはさておいて。
豪奢なアンティーク調の椅子にぴんと背筋を伸ばして腰掛け、堆い書類1枚1枚に眼を通しているのが件の1人息子、高崎玲司である。
彼は癖のないさらさらの少し長めの黒髪を邪魔にならないように後ろに流しており、良い仕立てのスーツを身につけていると云う事もあってか大人びた印象を感じた。
「……入れ。」
そんな玲司の耳にとんとんとんと、軽やかな3つの音が届くと彼は書類から眼を離さないまま、良く通る声で入室を許可する言葉を与える。
「失礼致します、玲司様。」
音もなく扉を開けて洗礼された動きで会釈をした男は、高崎真白と云う。高崎の姓を名乗っているが、その家の血は一切混じっていない。
体は名を表すように彼の髪は新雪のような潔白で、眼を引いた。その髪は背中まで伸ばされており、下の方で赤いリボンが纏めている。
どこで購入されているのか判らない燕尾服は、細作りだが長身の彼に良く合っていた。
顔を上げるとその瞳は兎のように色がなく、血管の色が透けて見える。
彼は、色素欠乏症。しかし玲司は驚かない。
なぜなら、在りし日に行き倒れていた少年に真白と名付け、高崎の姓を与えたのは他でもない玲司だからである。
「紅茶をお持ち致しました。少し休憩をされてはいかがでしょうか。」
云われてみれば爽やかな香りは玲司の鼻腔をくすぐり、書類から顔を上げる。しばらく下を向いていたためか首に違和感を覚え、眉間を押さえながら天井を振り仰ぐ。
その玲司の行動で休息を取ると判断したらしい真白は、手押し車の上に用意していたカップに紅茶を注ぎ、静かにテーブルの上に置いた。
筋を伸ばした玲司はソーサーごと持ち上げて香りを楽しんでからカップに口をつける。豊かな香りに劣らない液体が喉を通るとまた深い味わいが彼を癒し、表情を綻ばせた。
主人が肩の力を抜いた姿を認めると真白は「失礼致します。」と頭を垂れて、入って来た時のように謹んで退室する。
玲司はカップを空けるまでの時間をゆったりと過ごしながら、先ほどまでいた執事の事を考えた。
拾ったばかりの真白は、何も出来ないどころか何も任せられないほど不器用で、仕事を増やす天才であった。
それが今では高崎家の使用人の中で誰よりも有能で、一度真白の働きを見た人間からは「ぜひうちの屋敷に来ないか。」と求められる、立派な執事に成長した。
玲司はそれをとても誇りに思う。彼の素質を見極めて、ここまで育て上げたのは他でもない自分だからである。
満足げな笑みを口許に刻んだ玲司は最後の一滴まで飲み乾かすとソーサーを机に戻して、代わりに書類を手に取った。
「っ……、」
その矢先、玲司は真新しい紙の端で指を切ってしまい鋭い痛みに眉を顰める。
ぽたり、と。血液が机に落ちると唐突に派手な音を立てて扉が開いた。
「玲司様……!」
入って来たのは、先ほど凛として主人へ仕えていた執事と同一人物とは思えない、真白である。
入室の挨拶さえすっ飛ばして、ずんずんと足を進めて玲司の傍までいくと、事もあろうに傷口へ舌を這わせ始めた。
「不潔だ、止めろ。」
ああ、この悪癖さえなければと。玲司は嘆息する。
この執事、色素欠乏症であり、重ねて吸血症でもあった。
もう血は止まっていると云うのに、真白は玲司の指を赤子のようにしゃぶり続ける。
それは暴挙としか考えられない行為であるはずであった。しかし、真白はただ血を求めているだけではなく、主人の痛みを気遣う眼で玲司を見つめているために、とても神聖な儀式のようにも見える。
「無礼を致しました……お許し下さい、玲司様。」
真白は主人の前に跪き、彼自身の唾液で汚した手の甲へ忠誠の証を送った。
この奇行が始まったのはいつの事だったか。その記憶すらも曖昧なほど馴れてしまった玲司は形だけ厳しい眼で真白を見下ろし、大きく息を吐く。
「白。周りの眼がなければいいが、それ以外の場では十分に気をつけるんだ。判っているな。」
「はい。承知しております。」
その真白の返事を聞いた玲司は眼光を緩めて「もういい。」と執事を立ち上がらせた。
「直ぐに消毒致します。」
さすが高崎家の有能な執事。用意の良い事に燕尾服のポケットから消毒液と脱脂綿を取り出して、恭しく玲司の手を清めていき、仕上げに絆創膏を貼り付ける。
すっかり平常に戻った真白はまた丁寧な辞儀をして「ご用の際はお呼び下さい」と慎み深く退室した。
「……本当に、これさえなければ、な。」
玲司は手当をされた指先を見ながら有能な執事の最大の欠点を嘆く。 机に一雫落ちた自分の血液を指先に取り、口に含んだ玲司は顔を歪めて首を捻った。
あの執事の味覚が、まったく理解出来ないと。
その一滴までも、決して無駄にはしない。
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