こぼれたミルクは戻らない。

 あなたが優しく撫でてくれた時、私の眼を見て、微笑んでくれた時。
私は初めて世界に許された気がした。

 ヤらせて。とはよく云われて身体をまさぐられたり、脚の間にぽっかりと空いた穴に突っ込んで私の上で必死な顔で腰を振る男の顔をぼんやりと見ることなんて日常茶飯事。
 私の身体には興味があっても、私自身には誰も関心なんて抱いていなくて。
 それでも誰かに必要としてもらえることは嬉しくて。
 都合のいい道具でもいいから、構ってほしくて。
 どこもかしこも穴だらけだった。埋めても埋めても満たされなくて、むしろ空白が増えていくばかりだった。
 そんな日々を繰り返していく中で、不意にあなたは私の日常を壊した。
 あなたが私に手を翳した時、打たれるのかと思った。
 怖くなって、眼を瞑ったらあたたかな手のひらが頭に触れて。じんわりとその熱が移って。眼頭が熱くなって、涙が溢れてきた。
 眼を開けたらあなたはすべてを受け入れてくれるような、綺麗な瞳に薄汚れた野良猫みたいな私を映していて。それが無性に悲しくなってさらに涙が止まらなくなった。

 私の初恋は、始まる前から終わっていた。
そう気付いたのは恋心を自覚するよりも早くて、渇きは余計に増していった。
 餓えて、渇いて。でもあなたにこの想いを伝える勇気も、資格もないと自分でよくわかっていて。
 でも、今思えば伝えればあんなことはしなかったのかもしれない。
 きちんと終わりを、けじめをつけないままずるずると引き摺ってしまったから。
 だから、あなたにあんな顔を、させてしまった。期待を、裏切ってしまった。
 しとしとと雨は降る。何も云えずに、謝ることもできないまま逃げ出した。
 冷たい雨に濡れても、頬だけは熱かった。あなたに手のひらの形と同じ痛み。
 嬉しい、なんて。本当に私は最低な人間だ。



「──け……、ミケ……」
「っ……な、おさん……?」
 身体があたたかい。薄ら眼を開くと尚さんに抱きしめられていて、背中を優しく摩ってくれていたようだった。
「大丈夫?」
「え……あ、はは……ごめんなさい、時々寝ながら泣くんですよね……」
 まだ過去の記憶の残滓が残っていて現状の把握がままならなかったけど、そういえばこの夢を見たあとはいつも泣いてしまうのだ。尚さんと暮らし始めて久しく見ていなかっただけに、衝撃は大きくじんじんと頬が熱を持っている錯覚すらしてくる。
「悲しい夢をみるの?」
「ん……そう、ですね……うん……よくわかんないです」
「……そっか」
 ちゅ、と尚さんの唇が眼許に触れる。腫れぼったいそこには尚さんの唇は少し冷たく感じた。
 続いて目蓋、額、頬に唇が優しく押しつけられる。じんわりとあたたかいそれは、いつの間にか空になりかけていたコップを満たしていく。惜しみなく慈しみが篭ったキスをもらっているうちに底知れない恐怖心はまた心の奥深くに帰っていったようだ。
「ごめんなさい、もしかしてうるさくて起こしちゃいました?」
「うんん、何となく起きたらミケが泣いてたから心配で」
 優しい嘘だと思った。尚さんはわりと寝てしまえばちょっとの物音や更には地震でも起きないことは知っている。
 そんな人が起きるくらいだ。もしかしたら何か大声をあげてしまったのかもしれない。
「……大丈夫だよ、ミケ」
 後頭部に手を回して胸に顔を埋めさせてくれる。私が落ち着く体勢だ。ゆっくり呼吸を繰り返していると尚さんの匂いでいっぱいになる。
 あの人と尚さんは似ても似つかない。性別だって、年齢だって、性格だって。なのにこんなにも惹かれてしまうのはなぜなのだろう。
 気づいたら尚さんは私の内側に入り込んできていて、何もかも忘れさせてくれるくらい愛してくれて。
 捕らわれていると思った時には、もう手遅れだった。