ねこにまたたび。

「ミケさん、ただいまっす!」
「んー、おかえり。お疲れさん。」


 長い派遣業務から帰った村井が自室へ帰ると、いつもと変わらない様子で比留間は出迎えた。
 どうやら本を読んでいる最中だったようで。一度村井と眼を合わせたものの、すぐに視線を手元の本へと落とす。
 久々に会えたというのにつれない態度。
 「寂しかった。」なんて甘い言葉は端から期待していなかったが、あまりにも素っ気ない比留間の態度に村井は焦りを感じた。
 めげずにベッドの隅で三角座りをしている比留間を背後から抱きしめてみる。
 恋い焦がれていた感触と、匂い。村井はばたばたと、尻尾が忙しなく動いてしまうのを抑えられなかった。

「ミケさーん……。」
「んー……。」

 それに対して比留間は空返事をしてぺらりと、ページを捲る。その指先に触れて欲しくて、村井はそっと手を重ねた。

「おい、邪魔。読めない。」
「俺がんばってきたんすよー!」
「はいはい、よくできました。」

 平坦な声でそう云って比留間は村井の手を退けてまたページを捲る。
 こうなれば、最終手段に出るしかない。

「う、わっ、ちょ……っ止めろって!」

 比留間に断りなく、まろい膨らみをそっと下から掬い上げるように手のひらで包み込む。
 普段の村井ならば絶対にしないことだ。
 ようやく本から視線を外した比留間は、恨みがましい眼つきで村井を睨め付ける。

「こうでもしないとミケさん構ってくれないから……。」
「は? 別に無視はしてねえだろ。」
「心がこもってないっす!」
「やっ、ちょ、揉むな……!」

 手によく馴染むそれに触れると、感触を確かめずにはいられない。
 それにいつもなら比留間もその気になって、身体を預けてくるのだ。
 そう、いつもならば。

「っ……、こ、のバカ虎……!」
「あいたっ!」

 よりにもよって手にしている本の角で側頭部を強かに打たれた。
 文庫本とはいえ、華奢で柔い比留間の手に比べればその痛みは鋭いものだ。

「ったく……『待て』、だ。」
「そ、そんなあ……!」
「今いいとこなんだよ、後だ、後。」

 懲りずに手を伸ばそうとすると尻尾でばしっと叩き落とされた。本より痛みはないものの、心が痛む。
 比留間は、自分がいなくても何も感じなかったのかと。

「はー……。」

 ぱたん、と比留間は本を閉じる。
 いよいよ構ってもらえるかと村井はぶんぶんと期待に尻尾を振ってみせた。しかし無情にも比留間は別な本を手に取る。

「えっ!?」

 ぱらっと表紙を捲って再び本の世界に旅立ってしまった比留間に、村井の尻尾はへなっと力を失う。
 こうなったら本当に、本当の最終手段に出るしかない。

「ミケさん、そういえばお土産があるんすよ。」
「んー……。」

 今は一瞥もくれない比留間だが、これを口にすればもう落ち着いて本を読めるはずがない。
 村井は確信を胸にお土産の包装を解いて、中身のチョコレートを一つ摘んだ。

「はい、ミケさん! あーん!」
「あー……。」

 村井が何を持っているのかすら見ずに無防備に口を開けて、比留間はぱくっと指ごとチョコレートを含んだ。

「ん……、んっ……?っ、ちょ、おま、これ……っ!」

 もごもごと口を動かしているうちに比留間の頬は熱を帯びていく。首許までその色は広がり、心許なさそうにふるっと獣耳を震わせた。

「なんつーもんをっ、食わせんだよ……っ!」

 あんなに夢中になっていた本を取り落として、比留間はベッドに身体を投げ出した。
冷たいシーツが心地好いのか、うんうんと唸りながら熱を逃がそうとするかのように額を擦り付けている。
 まるで高熱に魘されているみたいだ。
 そんな痛々しい姿に、村井は途方もない罪悪感が湧いてくるのを抑えられなかった。
 まさか、こんなに効くとは思わなかったのだ。

「み、ミケさん、ごめんなさい!」
「っ……悪いと思うなら……っ、早く……触れ……。」
「う、うっす……。」

 ただ、構ってほしかった。でもこんな強制的な、比留間の意思を完全に無視するような状況を作る気は更々なかった。
 しかし一度火が灯ってしまった比留間を、止めることはできない。
 腹を空かせた雛鳥のように鳴いて、その口いっばいに頬張り、満たされるまでは。
 尤も、またたびに酔わされている今は身体が思うように動かないようで、口を開けて待つだけのしおらしい状態だったが。
 せめてもの罪滅ぼしにと。ぴったりと肌を合わせたいのを堪えて頼りない身体を潰さないように、村井はそっと覆い被さった。
 たったそれだけのことで比留間はびくりと過剰なほどに総身を震わせ、くぅんと甘えた声を洩らす。

「ミケさん……俺、寂しかったっす……。」
「んん……っ、それは……俺だっ、て……、」

 息を乱しながら、その呼吸音に埋もれてしまいそうな小さな声だった。
 それでも鋭敏な耳は確かに「寂しかった。」という言葉を拾い上げた。
 先程までの澱んだ感情をすべて吹き飛ばすような、春嵐に攫われたような心地だ。
 喜びを隠さずに比留間の首許にぐいぐいと鼻先を擦り付けると、甘い匂いが強く香った。
 嗅ぎ慣れた、安心する香り。それは同時に村井の心を乱すものでもある。
 衝動のままに歯を立てると、もっと噛めと云わんばかりにその匂いは濃度を増した。

「お前、いないから、……っバカみたいに本取り寄せた、のに……っ、ずっとお前のこと考えて……全然読めなかった……。」
「へっ?」

 予想外の言葉に村井は気の抜けた声を洩らして、首許から顔を上げる。
視線がかち合うものの、惚けた顔を見られたくないためかすぐに比留間は顔を背けた。

「……っ、もっ、さっさとしろっ、……バカ虎……。」

 不満そうなのに、甘えを隠しきれていないおねだりに村井は堪らず比留間の頬に唇を押し付ける。
 そしてようやくきちんと視線を合わせてくれた比留間の唇を、強がりのために纏った棘を抜くように、優しく啄んだ。

「……おかえり、景虎。」

 

素直になれない彼女に、甘いおまじない。