おやすみダーリン。

 それは有り触れた日常。稀にある元軍人であることを活かせるヒト族に飼い慣らされる日々に辟易したペットたちが生物兵器としての本能を擽られる依頼であった。
 ニホン連邦とアドルカ帝国間で長く続いた戦争は表面的には終戦宣言され、生物兵器たちをペットとして元軍人としての尊厳を踏み躙るような約束と、人知れずに『供物』としてヒト族に捧げられた神頭瑞清の献身があって平和協定は結ばれた。しかし未だにペット帝国に生きる元生物兵器たちの存在を許せないヒト族は少なからず存在している。此度はそんなヒト族の集団が起こしているテロ紛いの暴動を鎮静してほしいという依頼であった。ニホン連邦の軍では太刀打ちできず、しかしペット達は元々争いのために生み出された生物兵器。彼らにとっては軍人でもない素人のヒト族など赤子の手を捻るような容易な任務である。
 その、はずであった。派遣された部隊は次々にヒト族達を無力化していき、そのアジトの最深部に先陣を切って比留間ミケが突入を図った一瞬の出来事。室内にいたヒト族たちは自らの身体に取り付けていた爆発物の起爆装置を一斉に起動したのである。これまで対峙してきたヒト族達は囮であり、彼らの本来の目的は生命を賭けてでもペット族達を巻き込んで自爆テロを起こすことであった。一番近くにいた比留間はその炎を伴った爆風に曝されて全身火傷の重傷を負った。その上建物の崩落に巻き込まれて頭部に強い衝撃を受けて、何とか待避が間に合った部隊の仲間達が幾ら声掛けを行おうとも皮膚の深部まで熱で焼かれ、頭部から流血し続ける比留間を仲間達も無傷ではなかったけれど懸命に応急処置を施しながらペット帝国へと帰還した。
 重体であることは素人が見てもすぐにわかる比留間は処置室へ運ばれて治療を受けた。火傷やその他の傷は生物兵器の特性である脅威的な回復力も相俟って一命を取り留めることはできた。しかし、打ちどころが悪かったのか意識が回復する兆しは一向に訪れることはなかった。

──あとは意識さえ回復すれば。その任務には参加しておらず、後々事の次第を知った愛猫玉響は数多くの機械に繋がれて延命処置を受けている比留間の元に毎日かかさず見舞いに訪れていた。
 最初の頃は取り留めのない話を一方的にしていたけれど、話題が尽きてくると比留間の部屋にある膨大な量の本棚から適当に選んだ本の読み聞かせを行ったりした。最後人はいつも比留間が吸っていた煙草に火を灯して一本だけ吹かして「また来るね」と退室していた。それは聴覚や嗅覚を刺激すれば起きるかもしれないと考えての行動であった。
 愛猫は来る日も来る日も休むことなく病室を訪れていたため、比留間の容態や取り巻く環境についてはだいたい把握していた。例えば延命に必要な装置を維持する資金は比留間が起きることを信じて待っているカリソメ飼い主達が出資していること。
「みんなに愛されていて幸せだね、ミケ。だから早く起きてよ。」

  いつも通り、愛猫は比留間が一人眠り続ける病室に向かって歩いていた。その道中で愛猫の鋭敏な猫の耳は聞き覚えがある声による云い争いを聞くつもりもないというのに拾ってしまった。
「もう比留間は目覚めませんよ。いっそのこと楽にしてやりませんか?」
「またお前は勝手なことを云って。まだそうと決まった訳ではないだろう。」
「本気でまだそんなことをお思いで? 考えてもみてくださいよ、もう一年ですよ。」
「それは……。」
「比留間に名誉のある死を与えることに貴方が躊躇う理由などありますか?」
「そういう訳ではない。だが……。」
 (一年……そっかあ、もう一年もミケは眠っていたんだ。)
 邪魔者がいなくなることを待っている間に愛猫は意識のない比留間との日々を思い返していた。結論が出ないままだというのに幹部達は病室から立ち去り、入れ替わりで入室する。
 いつも通りに持ってきた本を子どもに読み聞かせるように朗読して、それが終わると煙草に火をつけて比留間を真似て口に咥え有害な空気を吸い込んで口に含んでも肺に入れることなくすぐに紫煙を吐き出した。
「ミケ……起きて。ねえ、起きてよ。」
 この時、初めて愛猫は昏睡状態に陥った比留間に触れた。その体温はよく知る馴染んだものではなく、氷のように冷たく死の気配を感じさせて恐ろしくなる。
「やだよ……ミケ、このままじゃ……。」
 ベッドに上がって管だらけの身体をいくら撫でても体温は上がらない。病院着を脱がせて萎えている性器を咥えても比留間は何の反応も示さずに指先ひとつ動かさない。
 いつものように撫でて、いい子いい子ってして。キスをして、抱きしめて。空っぽな俺のこころを満たして。
 「ミケ……。」
 気がつけば愛猫の瞳からぽたぽたと涙が落ちて比留間の身体を濡らしていく。
「ミケ……好きだよ。」
 寝たきりのため細くなったと感じる首や腕や全身を毛繕いでもするように丁寧に舐めながら最後に尻の間に唾液を絡めた指を滑り込ませる。弛緩している身体は愛猫の細い指をすんなりと受け入れた。しかし比留間の身体は本当に無機物のようで。それでも愛猫は丁寧に愛撫を施していく。
「ミケ……ミケ。」
 比留間に覆い被さり菊文へ性器を押し付けると簡単に飲み込まれた。冷たく感じる比留間の直腸はやはり何の反応も示さなかった。それでも比留間が気持ちいいと感じてくれるようにと記憶に残る感じ入る声や仕草を思い出しながら律動を繰り返していると、また涙があふれてくる。
──感じるのは、完全な別れ。
 もう本当は最初からわかっていたのかもしれない。それでも比留間はいつか目覚める時がきて、またへらっと笑って自分を見てくれるのだと愛猫は信じていたかった。
「ミケ……好き。」
 獣耳にそっと唇を押しつけて、愛情を込めてつぶやきながら静かに絶頂に達してすべてを中に注ぎ込む。しばらくぼんやりとしながら上から伸し掛かって抱き着いてもいつものように抱きしめ返してくれなくて、愛猫は自分の身体も冷たくなっていく気がした。
「ミケ……寒い。寒くないの?」
 相変わらず返事はない。しばらくただ眠っているだけかのような穏やかな比留間の顔を見つめて、愛猫は微かに笑みを浮かべた。酸素マスクを外して唇同士を触れさせる。ひどくカサついていてまるで違う誰かとキスをしているようであった。
「ミケはいっぱいがんばっていたもんね。だから、もういいよって神様が云ってるのかもね。」
 ベッドから下りた愛猫は比留間の身体に繋がっている機械の電源を、ひとつずつ愛刀で切断していく。
「おやすみ、ミケ。大好きだったよ。」
 愛猫が病室の扉を閉めると同時に比留間の状態をモニタリングしていた機械が心停止を告げる無機質な音を立てた。愛猫は泣いているのか笑っているのか曖昧な表情を浮かべてバイバイ、と声を出さずに唇の動きだけで別れを告げてその場を立ち去った。