落っこちた夢。

5月13日、午後4時37分。

僕を拒み、虐げた世界に別れを告げよう。

僕の心を傷つけ、僕の痛みを鼻で笑ったあいつに復讐してやろう。

さよなら、世界。さよなら、愛されなかった僕。

落下してゆく入れ物。剥離してゆく意識。

衝突寸前、眼を閉じて脳裡を過ったのは僕を馬鹿にした、あいつの冷めた眼だった。

 

* * *

 

真っ暗な空間がある。眼を閉じていても、開いていても変わらない純粋な闇。
その中でぽつんと佇んでいた少年が眼を開く。

「ここ……何?」

呟いた声は闇に溶け込んだのか、応答はない。

「明かり、欲しいな……。」

自分の姿さえ見えない事が心細いのか、少年の声は微かに震えていた。
しかし次の瞬間、少年の声に応えるように空間は真っ白に塗り替えられる。
その眩しさに少年は掌で眼を覆った。そして光に馴れた頃改めて周囲を見回すと、足許に古めかしい懐中時計が落ちているのを見つける。
それを拾い上げて、開いてみると針は4時38分を指したまま止まっていた。

「何これ……壊れてるの?」

少年が懐中時計をこつこつと指先で叩いたり、上下左右に振ってみるとかち、かち、と秒針が動き始める。
だが、その針は反時計回りで時刻は4時37分になった。

「変なの……でも何かおかしな空間に懐中時計って、アリスみたい。」

少年はくすくすと笑う。

「死後の世界なんて、何にも考えてなかったけどこんな世界だったら死んでみて良かったな。」

笑い声は徐々に大きくなっていき何もない空間を走り出した少年。
不思議な事に少年が通り過ぎた後には草木が生い茂り、空白の世界が色付き始めた。

「遅れちゃうー女王様に叱られるー急がなきゃ、急がなきゃ。」

少年は楽しそうに不思議の国のアリスで登場する白うさぎの台詞を口にしながら走り続けた。
ある程度世界を作り上げたところで気が済んだのか、少年はどこからともなく現れた切り株に腰掛けて時計を眺めた。

「そうだ、僕は白うさぎ。アリスは……ううん、この世界に女の子は要らない。アリスが来ない不思議な国の白うさぎだ。」

宣言した途端、彼の頭には好奇心を具現化したようなぴんと立った白い耳が現れる。
そして甘い茶色の髪は白銀へと染め変えられ、同じ色の瞳も鮮やかな血液を透かした色になった。

「あとは……チェシャ猫。」

そう、白うさぎが口にすると突如頭部に猫耳を生やした少年が姿を現した。
その少年は耳よりも紫色の奇抜な髪が特徴的で、ゆっくりと開いた眼は金色に輝いている。

「お好きなところへお行き。君は神出鬼没で気紛れな猫なんだから。」

白うさぎの言葉にチェシャ猫はにぃっと白い歯を見せて笑うとふっと、現れた時と同じように姿を消した。

「それから、眠りねずみ。」

それはまたどこからともなく。丸くなって眠っている少年が白うさぎの足許に現れた。
この少年の髪は金色の柔らかそうなもので、彼の性格を表すように大きな耳はぺたんと足れている。

「……おいで、帽子屋。」

少年の声は今までとは違い棘があった。それにも関わらず本当に愉快そうに口端を吊り上げて、その者の名前を呼んだ。

「お呼びでしょうか、白うさぎ。」

現れたのは裾の長い黒衣を纏い、特徴的な背の高い帽子を被った成人男性。
帽子に隠された面から覗く瞳は、深く濃い血液の色をしていておぞましさを感じるが、端麗な容姿がそれを紛らわせていた。

「ねえ、云ってごらんよ。あの言葉を。」

切り株から立ち上がった白うさぎはゆったりとした足取りで帽子屋の元へ歩み寄り、首筋にかかる綺麗な黒髪をさらりと撫でた。

「愛しています、白うさぎ。」

その言葉を聞いた白うさぎは笑い出した。それは狂ったように。連動して周りの草木もかさかさと葉を揺らして笑っている。

「上出来だよ、帽子屋!」

間を置かず帽子屋の首は胴体からどさりと重たい音を立てて落ち、夥しい血液を吹き上げながら身体も崩れ落ちた。
白うさぎの手には鏡の欠片が握られていて、その切っ先は濡れていた。

彼の瞳と、同じ色の液体で。