──此処は……何処?
淡い霧の中に包まれた世界に、ただ一人。
名前も、自分の姿さえ知らず漂うかの如く在る、長い黒髪に黒衣を纏う青年。
いつからこうして在ったのか、はたまた初めから此処に在ったのか。
それさえ判らない、半永久的世界に在り続ける、理。
「あ……堕ちて来る。」
柔らかな、しかし冷たさを孕む声が響く。
霧を含んで艶めく黒髪を無造作に払い、この世界の『上』を見上げた。
静かな世界に異質が生まれる。
音もなく、それは青年の前に現れた。
視線が絡み合い、沈黙が広がる。耳障りではない、迷い込んだ命の衝動。
「……此処は、」
現れた男は頭を振る。その様子は、地上と違う空気に惑っている事が見て取れた。
白に支配された視界には鮮明に映る黒。こめかみを押さえながら青年を見る男の目に、恐怖の色はない。
「いらっしゃい。」
出来得るだけ、柔らかな表情を浮かべる。微笑み、とされる表情を忠実に再現して。
「どうして、死のうとするかな。しかも自分で。」
人形の様な微笑みのままで紡がれる言葉に、男の顔が青くなる。
壊れた脳のパズルが、記憶のピースで埋まり始めたのだろう。
「俺は……、」
恐る恐る青年から視線を反らした男は言葉を濁し、困惑の色を濃くする。
「ああ……此処に来たなら死んでないよ」
「本当に……?」
青年の言葉を聞くと安堵した事が窺える顔を上げるが、その言葉と同じく青年には感情がない様に思える。
「僕にも判らないけれど、此処に来てあっちに行く人は少ないかな。」
ふ、と。小さく息を吐く姿は何処か艶めかしく。
白いヴェールを纏い、遠くを見る瞳は死神とは思えない。
しかし、男を見る瞳は妖しい色を宿し、獲物を求めている様にも思えた。
「君は、一体……」
冷静を保とうとするも、青年の話は奇天烈だ。
この場所もただ霧が深いだけで、案外田舎の山中なのではないかと考える程に。
それも、目の前の青年がこの世の者とは思えない整った顔をしていなければだが。
「……あなた、立ち話はいいから早く還ったら?」
刹那、首を傾げて眉根を寄せるが、判らないと男に背を向け言い捨てた。
「え……、」
今度は男が理解しかねるといぶかしげな声を出す。すると、青年が緩慢な動作で振り返り、初めの時の様な微笑を浮かべた。
「二度と会う事もないものの事を知ってどうするの? それに、ここにいたら死ぬだけだよ。」
これが最後だ、と。
遠回しに告げる青年の言葉に男は目を見開いた。
「だったら君は……、」
男の言葉は最後まで紡がれなかった。
青年の冷たく、濡れた唇が重なり、答えを物語る。
次の瞬間、異質は跡形も無く消え去り、青年の唇にだけ存在の跡が残った。
深い霧の中。
歩き続けるその理由を、知らないまま。
果てのない迷宮をさ迷い続ける……。
晴れることのない、白い闇の中を。